外国人が見た中央区(二)

エーメ・アンベール

 文久3(1863)年、エーメ・アンベールは、スイスと日本との間に修好通商条約を結ぶため、主席全権として来日しました。幕府との交渉の末、江戸高輪伊皿子のオランダ公使館のある長応寺で条約に調印したのは、年も押し詰まった12月(1864年2月)のことでした。

 アンベールは、文政2(1819)年にスイスで生まれました。天保10(1839)年、ドイツのチュービゲン大学に学び、言語学、哲学、文学を学びましたが、途中で学費が続かず、高等学校の教師となりました。その後、嘉永元(1848)年に臨時政府の書記、憲法議会の議員となり、さらに州内閣の文部大臣を務めました。スイス政府は日本との国交を開くために先遣としてスイス通商調査派遣隊隊長リドルフ・リンダウを日本に派遣していましたが、幕府がスイスと条約締結の用意があることを知り、アンベールを特名全権公使に任命し、ここにアンベールの来日が正式に決まりました。アンベールは条約締結交渉の合間を利用して、江戸のほか、横浜、鎌倉、京都を旅行し、日本の歴史、地理、宗教、社会制度、政治機構、風俗習慣などを、旺盛な好奇心で観察、調査し、のちに日本での見聞記をまとめ、「日本図絵「(1870年刊。日本語訳は高橋邦太郎訳」アンベール幕末日本図絵」) を刊行しました。江戸においては日本橋、神田、浅草、深川、芝、品川などへ足を運び、はじめて見る江戸の景観、風俗、人情について細かい観察をしています。

浜御殿

大君(将軍)の船乗場が、溜池、川の河口にある浜御殿の島の上に設けられている。この川が城の堀の水を満たしているのである。浜御殿は正確な併行四辺形をしていて、二本の橋で、西は愛宕下と、北は京橋と連絡しているが、一般には通行が禁じられている。われわれは小舟に乗って、ほぼ一周してみた。石垣の壁、石の階段、乗船場の館、その上に影をおとしている、緑したたる樹木は堂々としていて、しかも、小ざっぱりしていて、しかも、みやびやかである。川の両側にそびえる高い樹々は、河口で、深い緑で、清く、深い水を守っている(上巻)。

各国の公使たちは幕府に対して共同で、堀に囲まれた風光明媚な浜御殿に公使館を設置したい旨を要請しましたが、それは実現しませんでした。

日本橋と魚河岸

 江戸城の堀から放射している運河のなかでは、日本橋運河を第一に、京橋運河を二番目に重要視しなければならないであろう。この運河とも商業地区の中心を通っている。いたって反りの強い日本橋の一番高い所から見ると、江戸の町はもっとも美しい姿で望まれる。 南に向かって歩いて行くと、目の前の地平線上に白いピラミッド型の富士山が現われる。右手には、大君の居城の四角い塔や庭園や、築山が町を見下ろしている。日本橋運河はこれと同じ方角に向って、江戸城の堀と合流する所まで、両岸には絹、木綿、米、酒の倉庫がびっしり立ち並んでいる。左手の上市場の向う側では、通りや大川に達する運河の上に視線が止まる。材木、炭、竹、畳、覆いをした籠、箱、小さな樽、巨大な魚などを運搬する何百隻もの長い船が四方八方に川の上を往来しており、かたや、通りの方はただ人間が行ったり来たりしているだけのようである(下巻)。

日本橋から眺める江戸市内の街並みの美しさ、遠くに望む白雪を頂いた富士山、輻輳する魚河岸の様子を書き留めています。日本橋の反りがかなりきつかったことも分かり、当時の日本橋からの眺望が、アンベールの目を通して生き生きと浮かび上がってきます。

  

浜御殿庭園 「ファーイースト」より

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ10月15日号より