外国人が見た中央区(一)

ケンペル

 今回から江戸―東京を訪れた外国人が区内各地を訪れた様子を紹介します。まず一番手としてオランダ東インド会社の医師ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルを取り上げます。

ケンペルは、五代将軍綱吉の時代、ジャワ、シャム(タイ国)の地を経て、長崎にやってきました。ケンペルは、1651(慶安4)年、牧師の子として生まれました。大学で古典語のほか、数カ国語をマスターし、医学を修めました。ケンペルは旅行好きの青年で、職を求めながらヨーロッパ諸国を旅行し、やがてオランダ東インド会社に船医として就職し、1690(元禄3)年にはるばる極東の島日本へやって来たのです。

ケンペルは、日本での見聞をまとめようと準備を進めていましたが、生前それを果たせず、死後他人の手によってまとめられたのが、『江戸参府旅行日記』(斎藤信訳、東洋文庫版)です。バタビアをたち、長崎までの記録から説き起こし、日本での見聞、江戸参府のことなど、幅広く叙述しています。 彼は日本に着いた翌年の1691年から2度にわたり、オランダ商館長に従い、江戸にやって来ました。長崎から江戸間での長旅は、彼の好奇心を満足させるものでした。

 われわれは幾つかの幅広い立派な橋を渡った。泥水の堀や浅い川や交差するたくさんの横町の左手には将軍の居城があり、川は右手の海の方に向って流れていた。橋の一つは四二間の長さがあって、日本国中で有名である。動かぬ中心地として主要な街道やあらゆる地方までの距離は、この橋から計るからである。それでこの橋は特に日本橋と呼ばれている。橋の下を流れている川は、外堀から来るのであって、その堀とは六○○歩ほど離れているように思われた。

この主要な中央通りは、ちょうど五○歩の幅があり、われわれは信じ難いほどの人の群や、大名や役人の従者、みごとに着飾った婦人たちに出会った。歩いている者もあれば、駕篭で行く人もいた。特にヨーロッパの軍隊式の隊形をした約一○○人の消防隊の徒歩の行進にも行きあった。彼らの制服は褐色の皮の上着で、それゆえ火事に対して都合よく作ってあった。何人かは長い火消用の槍を、他の者は鳶口をかつぎ、彼らの隊長は中ほどで馬を進めていた。

商人、呉服屋、食料品店、仏具屋、本屋、七宝細工師、薬屋、大同商人などが、家の前の軒先に商品を並べていたが、路上に立派な露店を出しているものも少しはあった。それらの店は、上から半分ぐらい垂れ下った黒い布(のれん)で覆われていたが、商品には長い特別な折紙を付け、値段が書いてあった。

 ケンペルは東海道を下って、品川宿に入り、そこで小休止しました。旅装を整え、芝口(新橋)から現在の銀座通りを通って京橋を渡り、日本橋に入りました。日本橋の賑わいの様子が目に浮かぶようです。

日本橋を渡り、魚河岸を眺めながら、さらに進んだ一行は、「最後の横町に入っていった。その手前の所の左側にある木造の鐘楼のすぐ近くに、われわれの宿舎が目に入った。そこは細い露地を通らなければ行けない奥まった家の二階であった」と記述しています。言うまでもなく、「木造の鐘楼」は石町の時の鐘であり、宿舎は本町三丁目角のオランダ人定宿長崎屋です。

  

「オランダ人定宿の長崎屋」 葛飾北斎画

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ9月15日号より