隅田川の水練場

明石町河岸と築地川

 浜町河岸以外で、東京都公文書館の記録に表れてくる場所に明石町河岸と築地川があります。明治13年6月、陸軍中将嘉彰親王から東京府知事宛に近衛兵の工兵の遊泳演習のため、図の明石町河岸(甲)と明石堀(乙)の使用の許可申請をしたところ、明石町河岸のみ許可が下りています。多分明石堀は艀などの船溜まりとなっているところで、船の出入りが多かったため不許可になったと思われます。

現在は埋め立てられ、「あかつき公園」になっています。

明治12年6月、東京鎭台(明治初年の軍団、同21年師団となる)から遊泳演習のため明石町三番地先で演習したい旨の申請がでています。

 同じころ、陸軍教導団の諸隊や近衛兵、東京鎭台兵などが明石町海岸や浜離宮で水泳訓練をしていました。明石町海岸といっても、陸軍教導団は明石橋際であり、近衛兵は旧ホテル館ならびに東京税関地、東京鎭台兵は明石町三番地先ということで、そのころは勝鬨橋が架けられる以前のことですので、現在聖路加タワーがあるあたりから勝鬨橋を越えて築地卸売市場、浜離宮あたりまで水泳場があったことになりましょうか。

 今は埋め立てられてありませんが、中央区役所前の築地川にも水泳場がありました。明治10年6月末、芝愛宕町三丁目の横山卓なる人物が築地一丁目合引橋際に水練教導の場を設けたい旨の願書を出しています。近頃酷暑のみぎり、納涼のため多くの人が海や川で泳ぎ、そのため沈溺するものもあり、ついては裸体禁制(現在の明石町のところに外国人居留地があり、当局はとくに気を遣っていました)のところ恐れ入りますが、同志の者と計り、水練教導したいので、合引橋際に間口18メートル、奥行3.6メートルの葭簀屋根の休息所を設け、水中54メートルの使用を、7月5日から晴天の日60日間拝借したいというものでした。これに対し警視本署は差し支えないとして許可を与えています(『往復録』明治12年 東京都公文書館蔵)。

 明治8年7月27日付の『郵便報知新聞』によりますと、「築地一丁目一番地先の河岸へ、横山卓と申す人、このたび官許を受けて水泳教導所を取設け、間口20間の処へ、休息所を手広く取り建て、丸に四ッ目の幕打回し、終日稽古の者は、一人2銭の謝儀を差出すと木札を渡し、大勢の中へ先生もともども游およぎ回り、川中へ丸太を以て階子を押立て、登りては飛込むその騒ぎの面白さ。稽古人も日々相増し、水の澄む間もなしと云う」と報じました(『明治ニュース事典』I)。

 明治10年前後のことと思われますが、古老の語るところによれば、築地の川は水が澄んでいて、はぜや手長えび、ぼらが釣れ、上げ汐には道路すれすれに潮が満ちて、小かれい、さよりに黒鯛の子などが海から迷い込んできたといい、しじみはつねに採れたといいます(篠田鉱造『銀座・築地物語絵巻』)。

 前回、男性にまじって女子が両国橋際で泳いで、評判になったことを紹介しましたが、それより10年以上前の明治8年7月29日付の『読売新聞』によりますと、「築地合引橋ぎわの横山という人の泳ぎ場は日々盛りにて、23日後に同所新富町の内川亭という寄せにいる内田某の娘にて十七八の美しい別品さんが下女を連れて游ぎに参りましたが、なかなか達者の游ぎ方にて、雪の肌に滴たる水は白蓮に露をおびたるありさまにて、島田髷も少しとけかかり、自由自在に行きつ戻りつして游ぐさまは、…清姫が日高川へ飛びこんで安珍を追ったときは、こんなものかと思うばかりにて、一騎当千の男たちも、かの娘の顔を見るばかりにて游ぐ事も忘れてしまった」(『明治ニュース事典』I)と報じています。

  

「東京実測全図」内務省地理局 明治17年

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ6月15日号より