隅田川の水練場
夏場に水練場を開設するには東京府(あるいは東京市)に河岸地の使用許可を取る必要がありました。東京都公文書館にはその書類が保存されています。関係の書類がひとつにまとまってあるわけではありませんので、分かる範囲で紹介しましょう。
まず、浜町河岸では、明治10年6月、浜町2丁目に住む大橋寛悟なる人物が浜町2丁目地先の河岸地を7月1日から100日間水泳教授のため日除けのある休息所(1.8×10.8メートル)を設けたい旨、申請を出しています。船の運航や河岸地の交通の邪魔にならないよう注意を怠らないと誓っています。同所が当局へ届け出た規則はつぎのようなものでした(読み下し文、東京都公文書館蔵「往復録」明治10年)。
一、洪水の時は水中へ入る事を許さず
一、拝借地の外遊泳を禁ず
一、通船へ近寄りみだりに妨害することを禁ず
一、一人ごとに木札を渡し順次伝習の事。但し木札のない者は一切かまわない
一、下したおび帯をせずに遊泳をしてはならない
一、断りなく水に入ることを禁ず
一、熟酔の者は遊泳を禁ず
一、伝習料は一人につき二銭
また、同年7月、同じく浜町2丁目に住む笹沼勝用なる人物が浜町2丁目2番地先の河岸地に休息所を設け、水泳場を開設しています。ここは川幅が180メートル、河岸地の道幅10.8メートルあり、支障がないとして許可されています(「往復録」明治10年)。当時、水泳は男子がするものと決まっていましたが、明治20年代ごろともなれば、勇敢なる女性も現われ、評判になったことが新聞記事になっています。小説家永井荷風も少年時代に大川端の水練場に通い詰めました。
私は毎年の夏中休暇を東京に送り馴れた其の頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月を大川端の水練場に送つた事である。 自分は今日になつても大川の流の何の辺が最も浅く何の辺が最も深く、そして上あげしおひきしお汐下汐の潮流が何の辺に於て最も急激であるかを、若し質問する人があつたら一々明細に説明する事が出来るのは皆当時の経験の賜物である。自分が水泳を習ひ覚えたのは神伝流の稽古場である。 神伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮うきす洲の上に建てられる。浮洲には一面蘆あしが茂つてゐて汐が引いた時には雨の日なぞにも本所辺の貧しい女達が蜆を取りに出て来たものであるが今では石垣を築いた埋立地になつてしまつたので、浜町河岸には今以て昔のやうに毎年水練場が出来ながら、わが神伝流の小屋のみは他所に取払はれ、浮洲に茂つた蘆の葉は二度と見られぬものとなつた。
荷風は遊泳術の免許をとり、教師の監督から離れ、自由に隅田川を上り下りしました。
朝早く自分達は蘆のかげなる稽古場に衣服を脱ぎ捨て肌襦袢のやうな短い水着一枚になつて大川筋をば汐の流に任して上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這上つて犬のやうに川端を歩き廻る。濡れた水着のままでよく真砂座の立見をした事があつた。
「夏の町」『荷風全集』第五巻
永井荷風が通った水練場は、浜町河岸の対岸でした。荷風は水泳に関して達人の域に達していたようです。
永井荷風が水着で観劇した真砂座のあたり 『風俗画報』より
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ5月15日号より