隅田川の水練場(三)浜町河岸
水練は、遊びの要素よりは泳ぎの術として鍛錬するものでした。古くから兵法や槍術、剣術などと同じように、それぞれ流名を付けて泳ぎの技を競うようになりました。明治の中頃、東京で行われていた流派は、『風俗画報』122号(明治29年9月)に掲載された太田多稼「水練」によりますと、向井流、小堀流、神伝流、笹沼流、水府流を挙げています。
これらの流派は、「向井流は向井将監に発して、今の鈴木正家氏十三代目の業わざを続つぎ、小堀流は熊本の小堀長順に起りて今其その統を継ぐ者は八代目の小堀平七氏なり。神伝流は伊藤某を祖とし、十一代を経て現今の植原銃郎氏に至り、笹沼流は向井流より分れたるものにて、伝えて今の笹沼某氏に至り、水府流は即ち水戸藩の遊泳術にして太田捨造氏之これを伝へしが、明治27年に死せしを以て今其統は失へりといふ」という状況でした。
それぞれの流派で泳ぎ方がどのように違うのかはわかりませんが、太田多稼によれば、ただ手足の屈伸、水を掻く掻き方に差があるのみで大差はないとしています。現在、日本水泳連盟公認の日本の古式泳法は、神統流(発祥地・鹿児島)、小堀流(熊本)、山内流(大分臼杵)、神伝流(愛媛大洲)、水任流(高松)、岩倉流(和歌山)、能島流(和歌山)、小池流(和歌山)、観海流(伊勢・津)、水府流(水戸)、向井流(東京)、水府流太田派(水戸)の十二流としています。
前述のように、太田多稼が絶えたとした水府流太田派は健在です。また、前回取り上げた島崎藤村が通った水練場を永田流といいましたが、どちらにも登場しないのはどういうことでしょう。
太田多稼は、当時の水練場として大川端、浜町河岸、駒形、築地、厩橋、吾妻橋あたりを挙げ、浜町河岸では日本体育会、向井流鈴木水泳場、水戸流水泳場と浜町二丁目の笹沼流水泳場を紹介しています。向井流は、徳川幕府に仕えた船ふな手て頭がしら向井将しょう監かんによって創始されました。現在の亀島川の河口部、新川二丁目三十一番にあたります。ここに御船手組屋敷があり、船見番所が置かれ、大川(隅田川)に出入りする船の監視に当たっていたのです。いわばここが向井流古式泳法の発祥の地といえましょう。
向井流の教授の方法は次のようなものでした。練習生を甲乙丙および班外の四班に分け、上級から甲乙丙とし、まったくの初心者を班外とし、教師自らが手を取って浅瀬において教え、やや泳げるようになったら、深みで犬掻き、仰向き泳ぎを教えました。班外から丙班になるには一週間ほどかかり、隅田川を自在に泳げるようになるには三週間を要するといいます。
料金は、水泳場によってさまざまですが、日本体育会では入場券は60銭、賛助会員の紹介のある者や特約を結ぶ学校の生徒は半額でした。鈴木水泳場は束そくしゅう脩金(入学金)50銭、月謝60銭、水戸流は授業料50銭、笹沼流は授業料30銭でした。その他の水泳場はたいてい日謝で、大人3銭、子ども2銭でした。「下帯料」として一銭を取るところもありました。
そもそも水泳の普及は、明治18年に初代の陸軍軍医総監を勤めた松本順が健康増進と医療効果を上げる意味から海水浴場として神奈川県大磯の照ケ崎海岸を紹介したころから盛んになりました。松本順みずから大磯の海水浴場を宣伝するため、河竹黙阿弥に脚本を書かせた「大磯蘇我の対面」を新富座で上演させ、一躍大磯海水浴場が有名になったといいます。菊五郎、歌右衛門、左団次が出演し、舞台に海水浴姿の芸者が登場する場面もあり、「磯のかおり」という菊五郎の海水着姿の錦絵も発行されました。
大磯は上流階級の利用の場となり、庶民や学生生徒が手軽に行ける水泳場は隅田川ということでした。
両国橋の水練場(『風俗画報』121号)
両国橋の水練場(『風俗画報』121号)
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ4月15日号より