隅田川の水練場(二)島崎藤村と三宅克己の思い出
隅田川の水練場は、江戸時代に民間においてどのように展開されていたのか、明らかにすることができませんが、水泳は明治時代に入ってからは盛んに行われていたようです。
隅田川河岸のあちらこちらに水練場(水泳場)がありました。中央区内では浜町河岸に集中していました。東京都公文書館には水練場の認可に関する記録が残されていますし、また文学者たちの思い出の記にも書き残されています。
東京都公文書館の記録に表れた水練場については後ほど見ることとして、少年時代を日本橋浜町で暮らしたことのある島崎藤村の思い出を紹介しておきましょう。
明治から昭和にかけて活躍した文豪島崎藤村(1872から1943年)は、明治14(1881)年に信州馬籠から姉の嫁ぎ先銀座に出てきて、泰明小学校に入学したことは有名ですが、同19年に浜町に移り住んでいます。14歳の時です。
藤村が子どもに読み聞かせるために書いた自伝的童話『をさなものがたり』の中で「水泳」の項を立て、次のように書いています。
その頃の水泳場(すいえいば) といへば、いずれも浜町河岸に集まつて居ました。永田流と向井流とが競争のかたちであつた時分で、父さんの通ひましたのは永田の水泳場の方でした。長い吹流しの旗が河風に動いて居るところで、小屋の屋根に上つて甲羅を乾すもの、腕組みするもの、寝そべるもの、ぶるぶる震へて居るもの、高い梯子の上から音をさして水の中へ飛び込むもの、・・・・・岸の近くには、泳ぎ廻る人達の叫ぶ声や、波を蹴る騒がしい音で満たされて居ました。そこへ通つて行つて、父さんも楽しい時を送つたものです。
水泳場の近くには、生徒のために繋いである舟も見えました。潮風に染まつて色の黒い教師が、白い水着を着ながら、あちこちと生徒の監督に歩いて居るのも見えました。着物を小屋に脱ぎすてゝ置いて、背の立つ水の中を泳ぎ抜けますと、そこに繋いである舟の中にも多勢の生徒が集まりました。
身体(からだ)を逆さまにして舟から水底の方へ躍り入るものもあり、遠く向ふ河岸をめがけて進むものもありました。
藤村は一夏も通ううちに、水とも慣れ、泳ぎながら隅田川を往き来する蒸気船を見るのも楽しみになりました。蒸気船が通りかかると、蒸気船が残していく高い波に向かっていっせいに泳ぎ、波の背に乗るのでした。躍りかかってくる波に呑み込まれることもあり、一時はシーンとするほど深く沈んだ体がひとりでに浮いてきて、どんどん水の中が明るくなったかと思うと、いつの間にか日の光の照り輝くところへ出てくることもありました。
藤村少年15歳前後のことです。
そのころの隅田川の水質はどうだったのでしょうか。藤村は次のように書いています。
浮いて来る塵埃(ごみ)のかたまりや、西瓜の皮、腐った猫の死骸や、それから板片なぞが泳いで居る父さんの側をよく流れて行きました。ほんとに、あの川の中では、ありとあらゆるものが皆ずんずん流れて行きました。
農薬も、化学物質もほとんどない時代ですので、汚染度は低かったといってよいでしょうが、藤村が証言するように、ありとあらゆるものが流れてきたのでは、不潔というよりほかありません。しかし、少年たちはそこで嬉々として水泳に打ち興じていたのです。
藤村より2歳年下の画家三宅克己(1874から1954年)も同じころ浜町に住んでいて、浜町河岸の水練場で泳いでいます。
三宅克己は、明治7年に徳島において阿波藩蜂須賀家家臣の家で生まれ、明治13年、6歳の時、父親が浜町一丁目の蜂須賀家に仕えるため上京、本邸内にある長屋に住むことになりました。藤村と同じ明治学院に学び、英国の水彩画家ジョン・バーレーの作品に感動し、水彩画家を目指すこととなりました。明治31年にアメリカ、イギリス、フランスを歴訪し、翌年帰国。小諸に居を構え、ここで藤村と出会います。後に水彩画家の重鎮として活躍した人物でした(『中央区区内散歩』第4集、「画家三宅克己がみた浜町」参照)。
三宅克己が通った水練場は、藤村とは違う向井流でした。
浜町の狐横町時代、一番楽しい季節は夏であつて、それはツイ近くの大川端に、23軒の各流の水泳場が開かれ、其所に行つて水泳が出来るからである。私の就いて学んだ水泳場は、向井流と云ひ、伊藤さんと云ふ先生の水泳場であつた。臼井さんと云ふ大変に上手で親切な優しい先生も居て、その先生の顔は今でも一番はつきりと覚えてゐる。
何時向ふ河岸まで泳げるかと思つて居た大川も、楽々と泳ぎ抜くことが出来た。ある時は品川のお台場まで、遠泳会が催され、私はそれでも両国橋下から永代橋まで泳ぎ切つたものであつた。
『思い出つるまゝ』
この日、三宅は夜遅く家に帰ると、ひどい下痢と吐瀉をして、そのころ流行していたコレラに罹ったのではないかと両親たちを心配させました。両親は西洋医学よりも、漢方がよかろうといって、漢方の医者に看て貰っています。病気は案外早く治りましたが、当分の間、「少し濁つてゐる大川の水」を見ただけでも腹が痛むような気がしたといいます。しかし、そこは子ども、1週間も経つと病気の苦しさを忘れ、また泳ぎたくなったと述べています。
竹久夢二画「をさなものがたり」さし絵 飛び込もうとする少年
竹久夢二画「をさなものがたり」さし絵 隅田川(浜町河岸)
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ3月15日号より