夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(十一)
笠井彦乃は九州別府において倒れ、ほとんど動けない状態で京都に戻りました。それを知った父親宗重は京都に来て、彦乃を京都府立病院へ転院させました。彦乃は父の監視下に置かれ、夢二は彦乃に会うことが不可能になりました。夢二は後年その時の状況を歌に詠んでいます。
・心の中へぽかんと大きな穴があき、そこから寂寞(さみしさ)が湧いてくるなり
・病院より籠が来つるといふ声に布団の袖をかぶりて泣ける
・吊籠に添うて歩めばとくとくと妹(いも)が泪の音のきこゆる
・つつましくかしこき命いたはりて好き日を見むと手をとりて泣く
・憤(いきどほ)りの心もいつかかごむなり腕(かひな)まかせて寝(い)ぬる君見れば
『山へよする』
夢二は彦乃との面会ができなくなったことで、京都滞在を諦めて、大正7年11月7日に居を東京へ移しました。
そして彦乃は年末東京へ移送され、継母定代の兄が勤務する順天堂病院に入院しました。
夢二は彦乃と別れてから、彦乃から引き離された悲痛な想いを、彦乃との交際、一緒に暮らした日々を愛惜の念をこめて一気に書き上げ、大正8年2月、歌集『山へよする』として上梓しました。彦乃を追慕した愛の歌集です。後記にこの「一篇は、1914年10月より1918年12月までの5年間にわたるHEとSHEとの恋の記述である。また、彼等の愛の祈りである。大方は最近数週間の間に書いたもので、挿絵はある読者のために畫き添へたもので、ある感覚の説明に過ぎない。」とあります。
「山へよする」の山は云うまでもなく彦乃です。交際が始まって直ぐ、本名を隠すために手紙に使った山ー彦乃、川ー夢二は二人だけに通ずる合言葉でした。
『山へよする』の中で夢二は、彦乃の夢二宛手紙を紹介しています。
名を惜しんで下さい。彼等は彼等、私等は私等、交る時のない平行線でございます。大切なものを彼等のために費すのは惜うございます。あたしは静かになれました。どうぞ心おきなうあなたのお仕事を大切にして下さい。逢ひたいけれど・・・・・・・・・・しの
(「しの」は彦乃)
夢二は彦乃を見舞うことを試みますが、なかなか面会はかないませんでした。翌8年3月に彦乃の従弟大森昌三の手引きで短時間会うことができました。これが順天堂病院で夢二が彦乃に会った最初で最後だと伝えられてきましたが、笠井家に伝えられるところでは、夢二とは父親には秘密で何度か会っていたようだとのことです。継母の定代は心やさしい人で彦乃に同情するところがあったのです。
彦乃が順天堂病院に入院して2カ月目に発行された『山へよする』を彦乃が読んだかどうかは分かりません。今になってはその感想を聞くこともかないません。
彦乃の枕辺にはドーデー作『巴里の三十年』が置かれていたということです。ドーデーは『アルルの女』や『水車小屋便り』などで有名です。夢二から一緒に外遊する話を聞いていた彦乃は、行くことのできないパリに想いを馳せていたのかも知れません。
彦乃は自分の命が短いことを知っていました。それにしても亡くなるまでの1年間病床で何を考えていたのでしょうか。
彦乃は大正9年1月16日、順天堂病院の一室で家族に看取られ亡くなりました。享年数えで25歳でした。今風の満年齢でいいますと、誕生日前に亡くなっていますので、わずかに23歳ということになります。あまりにも短い生涯でした。そして夢二はその15年後に同じ病で亡くなりました。
彦乃は笠井家の墓、本郷区駒込蓬莱町(現、文京区)の高林寺に葬られています。
一石橋からの眺め
別府における彦乃『山へよする』よりて
病床に臥せる彦乃、左端は不二彦
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ1月15日号より