夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(十)

 大正6年10月中旬、彦乃と夢二・不二彦親子は、金沢湯涌での思い出を残して京都に帰りました。

 夢二は京都に居を移したことで、収入は減り、画会や展覧会を開いて生計を保っていましたが、彦乃も加わり、その上、展覧会のためとはいえ、北陸旅行と湯涌での長期にわたる滞在で家計は火の車だったようです。大正6年暮れには京都で「羽子板の会」を開き、翌年1月には岡山で「竹久夢二抒情画展覧会」(富田町北部基督教会)を開催し、次いで2月初旬後楽園鶴鳴館において「夢二作品展覧会」を開いています。

 正確な日はわかりませんが、1月から2月にかけて約1カ月、夢二・彦乃らは岡山の医師大藤眞の家に厄介になっています。大藤眞は大の夢二ファンで熱心なクリスチャンでもあり、夢二・彦乃の庇護者でもありました。なお、荒木瑞子氏によると、彦乃は京都で描いた大作「あじさいの女」を北部教会の展覧会に出品したといいます(『竹久夢二と大藤眞』2000年)。「あじさいの女」はその後大藤家逗留のお礼として大藤に贈られました。絵は屏風に仕立てられ、彦乃の画業を伝える貴重な作品として後世に伝えられました(「区のおしらせ 中央」10月15日号参照)。

 彦乃・夢二らが岡山から京都に帰って1カ月も経たない3月4日に突然彦乃の父笠井宗重が京都高台寺脇の住居に現れ、無理やり彦乃を東京へ連れ戻しました。

 自分と彦乃との関係を説明し、許しを得ようとする夢二に対して、父宗重は聞く耳持たぬといった態度で強引に彦乃を汽車に乗せました。彦乃も父親を説得する余地があると考え、父に従いました。

 彦乃が去った後、夢二は制作に没頭し、その成果が4月中旬の京都府立図書館で開催された「夢二抒情画展覧会」に出品されました。京都での「夢二抒情画展覧会」は2回目で、大正元年の第1回「夢二抒情画展覧会」は夢二にとって最初の個人展覧会であり、この時同時に開催されていた院展の入場者より夢二の展覧会の入場者の方が多く、評判となったことで知られています。

 彦乃はこの会期中の4月16日にアメリカ帰りの歯科医師寺尾幸吉夫妻に伴われて、この展覧会場に現れました。寺尾夫妻は父宗重を説得し、いわば彦乃の保護者的な立場で彦乃を京都へ連れ戻したのでした。寺尾夫妻の真意がよくわかりませんが、ふたたび彦乃、夢二、不二彦三人の生活が始まりました。

 彦乃の体調はその頃すでにすぐれず、夢二は8月に入ると、長崎の素封家で南蛮研究家として知られる永見徳太郎から誘いがあって九州への旅へ出ます。夢二は病状を気遣い彦乃を京都に残し、不二彦を連れ、九州へ旅立ちました。夢二は両親の住む八幡市枝光に立ち寄り、博多から唐津を経て、8月下旬に長崎の永見徳太郎を訪ねました。永見は夢二父子を手厚く歓待し、南蛮ゆかりの地を案内してくれました。ここでの滞在が夢二の傑作「長崎十二景」として結実します。

 一方、彦乃は、8月下旬病を押して別府まで来ます。彦乃はなかば寺尾夫妻の監視下にありました。寺尾夫妻は彦乃の九州行きには反対だったようですが、彦乃はそれを押して、旧友高橋しずに付き添われ、やっとの思いで別府までたどり着いたのです。彦乃は別府で静養しますが、病状は進み、9月はじめ別府楠町の中田病院に入院しました。夢二は長崎の仕事を終え、彦乃と合流するのは9月10日ころです。寺尾夫妻は夢二に彦乃を早く京都へ戻すように催促しますが、彦乃の別府滞在は20日間くらいになりました。

 9月末には彦乃一行は京都に戻ります。車中の彦乃の容態を案じた夢二は、大藤医師に電報を打ち、大藤は岡山駅で彦乃を出迎え、彦乃に注射を打ち、応急措置を施しました。寺尾夫妻は彦乃一行を京都駅に出迎え、自分たちが用意した京都府立病院へ入院させるように促しましたが、彦乃と夢二はそれを拒否し、いったんは高台寺脇の家に戻り、その後、彦乃を住居近くの東山病院に入院させました。

 なお、11月15日号の記述で夢二の子不二彦が彦乃を「彦ちゃん」と呼んだと書きましたが、「彦ちゃん」と呼んだのは夢二で、不二彦は「姉ちゃん」と呼んでいたとの指摘がありました。

彦乃と不二彦 高台寺脇住居にて

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ12月15日号より