夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(九)

前回は画家としての笠井彦乃について述べましたが、大正6年10月号の『女学世界』に寺崎廣業門下の女性画家の近況を伝える記事が載り、その1人として彦乃が紹介されました。

笠井彦乃女子も久代(河村)女史と共に同門中下町美人を以つて聞こえてゐる方で、本年17歳。始め栗原玉葉女史に就いて学んでいたが、大正5年5月、玉葉女史の紹介で入門したのです。日本橋本銀町の紙問屋の娘さんで唐美人を得意としています。本年5月、京都へ修業に行つて来たいと云うので、廣業に紹介されて京都方面に目下修業中であるとの事です。

父宗重は雑誌に載った娘の口絵を見て、画家として大成することを夢見ていたのかもしれません。

これまでさまざま書かれてきた彦乃像は、竹久夢二がもっとも愛した女性、夢二の愛を積極的に受け止めた女性としてのイメージが強いのですが、彦乃は夢二の援助を受けつつ、画家として立つ姿勢をもっと評価してもよいのではないでしょうか。

笠井彦乃が京都へ来て2カ月後、夢二、彦乃、不二彦の3人で北陸の旅に出ました。大正6年8月11日に京都を出発、12日に山中温泉に泊まり、同14日には加賀片山津温泉の湯鹿野旅館に泊まり、8月25日に金沢に入り、藤屋旅館を定宿とし、9月20日まで滞在しました。

北陸旅行の目的のひとつに夢二の展覧会開催がありました。9月15、16日に金沢西町の金谷館において夢二ファンの世話で「夢二抒情小品展覧会」が開催されました。この展覧会に彦乃も「山路しの」の名で出品したことについては前回触れました。

そのころ、不二彦が食中毒に罹るというハプニングがあり、一時岡本小児病院に入院しましたが、病も癒え、静養を兼ねて金沢市郊外の湯涌温泉「温泉旅館山下新右衛門」に逗留しました。人力車に揺られての湯涌行でした。当時はまだ鄙びた温泉の様子を夢二は「日記」(9月24日)に記しています。

すこし位ひ降つても強行してとうとう湯涌へきた。ほんとに湯元といふよりももつと湯わくといふ方が原始的な、さうした所であつた。雨の中を来たのだ。

道々、崖のくづれたところに新しい土の匂ひや貧しい山田の稲田を見たりして何ともしれぬ悲哀に胸をおされつゝ来た。

夢二にとってやっとここに流れついたといったという思いがあったのかもしれませんが、ここ湯涌で2人は至福の時間を持つことになりました。23日、彦乃は初髷、つまり結婚した女性が結う丸髷を結いました。彦乃はその感想を恥ずかしく、嬉しく、物珍しくと述べています。また、夢二は丸髷に結った彦乃を見て、田舎の婚礼の晩のように思ったと書いています。

夢二は、彦乃への追慕歌集『山へよする』において湯涌での思い出を歌にしています。「里居」前書きに

金沢の城下より五里り山道、都の人のゆくとことのならねば、数戸の人家も夕は早く戸を鎖ざし、湯治の客も、近き在所の畑に出でゝ働くべくもなき老人が多し。寂しくはあれど、山のたゞずまひ雲のゆきかひ、朝夕眺めても飽くことを知らず。山には山の木の実みのり、畑には好める野菜ゆたかなり。

と書いています。

・湯涌(ゆわく)なる山(やま)ふところの小春日(こはるび)に眼閉(めと)ぢ死(し)なむときみのいふなり

・谷深(たにふか)き片山里(かたやまさと)をゆくときも妹(いも)としあれば都(みやこ)わすれつ

・野守等(のもりら)が朝(あさ)のいらへをして過(す)ぐる女房(にょうぼう)ぶりもなれし頃(ころ)かな

・ゆく秋(あき)の渓(たに)の沈黙(しじま)のきはまりてしづかにも我等脣(われらくちびる)をよす

彦乃は病後の不二彦の相手になり、夢二、不二彦と3人で近所の山川を散策したり、金沢での展覧会の発起人のひとり西出朝風たちが訪ねてきて宴会を開いたりしています。21日間の湯涌滞在は2人にとって平穏で、もっとも幸福な時でした。

彦乃と夢二、湯涌温泉にて (撮影は不二彦)

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ11月15日号より