夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(八)

竹久夢二は、元妻岸たまきと決別し、絵草紙店港屋の後始末をし、大正5年11月に京都の若い友人堀内清宅に身を寄せ、京都での生活を始めました。翌年2月1日に京都二年坂に家を借り、次男不二彦を引き取りました。三年坂から続く二年坂の階段を降りてすぐの左手にその家はありました。現在その路傍に竹久夢二寓居跡の石碑が建っています。その隣には彦乃や夢二たちがよく通ったお汁粉屋かさぎやが今でも昔の姿そのままに営業を続けています。

3月21日に彦乃を迎えるため、夢二と不二彦はすぐ近くの高台寺南門鳥居脇に転居しました。そして6月8日に彦乃がやって来て、3人の共同生活が始まりました。6歳の不二彦と一緒の生活は負担であったでしょうが、彦乃は不二彦をチコさんと呼び、不二彦は彦乃を彦ちゃんと慕い、京都での生活は平穏でした。

夢二は落ち着いて仕事ができ、彦乃は時に夢二の絵のモデルになったり、大津旅行や川遊び、祇園祭り・時代祭り見物、南座での観劇などと充実した時を過ごしました。彦乃自身も絵の修業を怠らず、日本画家菊池桂月につき絵を見て貰っていました。どのような構図かわかりませんが、「祭りの宵い」という絵を描いています。

現在判明している彦乃の絵は肉筆画3点、雑誌口絵7点に過ぎませんが、そのほとんどが大正6年に集中しています。池上秀畝(しゅうほ)の画塾時代、15歳の作といわれる「はぎと小鳥」、女子美術学校の卒業制作作品「御殿女中」は初々しく凛とした女性を繊細緻密に描いた作品で、夢二からアドバイスを受けたものの、夢二の影響を感じさせない作品に仕上がっています。夢二は「日記」(大正5年3月28日)のなかで、「一昨日は美術学校の卒業製作の展覧会で、そのまへの25日に行つたとき、彼女の作品はもう無条件で好いとおもつた」と書き記しています。

彦乃が描く口絵が少女・女性雑誌に載ったのは、『少女の友』大正6年1月号掲載の「初春」が恐らく最初でしょう。雑誌社への推挙は夢二を通してのことと思われ、『少女の友』には同年4月号に「花散る下にて」、7月号に「七夕」、10月号に「黄菊白菊」を、また『新家庭』2月号に「寒牡丹」、『淑女画報』3月号に「春の灯」を続けざまに発表しています。

大正5年11月ごろの彦乃宛の夢二の手紙に次のような文面があります。

今日雑誌「新家庭」の記者まゐり話のうちにお前様のことに及び、何か画いて戴きたけれど作品を何か拝見出来ればと申候へども、私手許には何もなければ「もしあの人がきくならば何か持つて伺ふでせう」と申候。元来絵などもつて頼みにゆくのはすこししやくなれど誰しも修業時代はしかたなし、往古の天才さへ楽譜をポツケツトに入れて高家の軒を入りしをおもへばがまんして御出下されたく候。こちらの態度と自信さへあれば何も金をとることに人柄を損するともおもわれず候。あの大きな絵を見せておやり下されたく、それとも手頃の作品も候はゞ猶更と存じ候

夢二は続けて雑誌社への略図を書き、「自重と謙譲とを好きほどに出しあはせて御逢ひなさるべく何事もはじめが大事なれば自己を持しつつ心をひかせる御工夫なさるべく」と書き加えています。夢二は彦乃の画才を信じ、いくつかの雑誌社を推挙したものと考えられます。

同年8月から10月にかけて彦乃は夢二たちと北陸旅行をしますが、9月に夢二が金沢で開いた「夢二抒情小品展覧会」に彦乃は山路しのの名で作品を出展したといいます。そして生涯の大作となった「あじさいの女」は、京都滞在中に大正7年1月、夢二・彦乃たちが世話になった岡山の医師大藤昇のために描いたといわれます。「あじさいの女」は正確な筆致で力強さとたおやかさを表現した力作です。これら一連の作品は、夢二の影響を感じとれますが、デッサンに確かさがあり、画家としての素質を感じ取れます。

  

「あじさいの女」笠井彦乃画 大正7年

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ10月15日号より