夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(七)

笠井彦乃は親の目を盗んで竹久夢二との逢瀬を重ねていたことについては前回述べました。彦乃が夢二と同棲する事を決意したのはいつかは分かりませんが、先に移住した夢二の後を追って京都に現れたのは大正6年6月8日のことでした。

彦乃の京都行きに深く関わった人物に画家の栗原玉葉(ぎょくよう)がいます。玉葉は明治16年4月、長崎県南高来郡山田村の酒造業栗原宰(つかさ)の長女として生まれました。明治34年に梅香崎(うめがさき)女学校に入学、絵を描くのが好きだった玉葉は同39年同校卒業とともに上京し、女子美術学校に入学しました。小学校のころ父親を亡くし、女学校在学中に自宅が火災に遭い、女子美に進んだときの学費を援助してくれたのは梅香崎女学校の恩師ミス・カウチだったといいます。

女学校在学中に教師の感化でキリスト教に接し、地元の教会で先礼を受けています。東京では本郷教会(現弓町本郷教会)に転入会しました。学費の乏しい玉葉は同教会の日曜学校幼稚科の教師になったり、ライオン歯磨工場夜間徒弟学校の教壇に立ち補いました。女子美時代は苦学の連続でしたが、画業一筋、成績優秀で、明治43年女子美術学校を卒業しました。その後、寺崎廣業の門に入り、頭角を現し、寺崎門下の1番弟子としての評価を受けるようになりました。

前々回に触れましたように、彦乃が女子美術学校を大正5年に卒業しますと、その5月、先輩の玉葉の紹介で寺崎廣業の画塾に入門しました。女子美術学校の卒業制作に若い女性を描いた「御殿女中」を仕上げ、また、夢二の励ましもあり、絵の道に進むことを決意した時期でもありました。彦乃の父宗重は彦乃が美人画を描く夢二の影響を恐れて、自分の好きな画家寺崎廣業の門に入ることを許したのではないでしょうか。

先輩として、また姉妹弟子として、彦乃は玉葉を慕い、苦労人の玉葉は彦乃に同情し、玉葉は彦乃からの相談にのったと思われます。

彦乃と夢二との連絡は両親に知られずに行う必要がありました。夢二は偽名を使って手紙を書いたり、また、彦乃が三味線、小唄を習っていた近所の師匠の粋な計らいで、夢二からの手紙の中継役を買って出てくれたりして、連絡を取り合いました。現在、日本橋区本銀町二ー七針生久方やま様(あるいは比古乃様)宛の手紙が10数通残っています。また、父が経営する紙問屋の使用人の中にも彦乃の同情者がいたようです。

彦乃の京都行については秘密裏にことが運ばれました。親には寺崎廣業の推薦で京都に絵の修業に行きたいと頼み、ねばり強く親を説得しました。父親宗重はしぶしぶ寺崎廣業の推薦ならばということで京都行きを許しました。言うまでもなく、玉葉が間に立ち、寺崎廣業を動かし、成功に導いたのです。

彦乃と夢二にとって、玉葉は大恩人です。玉葉は女性画家として多くの門下生を育成しましたが、リュウマチを患い心臓病を併発し、大正11年9月に42歳という若さで亡くなりました。竹久夢二は玉葉の死を悼んで歌を捧げています。

・君しすと風はたよりをもたらしぬ山川遠きみちのくにして

もう1人、重要な人物に高橋しづがいます。高橋しづは長崎県諫早市の人で、不幸な結婚から逃れ、18歳のころ上京して女子美術学校に入学、そこで彦乃に会いました。お嬢さん育ちで一途な彦乃を見て放っておけないと思ったのでしょう。彦乃の味方となり、諸事相談にのったと思われます。彦乃の京都行きに合わせて京都での絵の修業を決めたかどうかは分かりませんが、同じ時期に京都で絵の修業をしながら、何くれとなく彦乃たちの世話をしました。

  

京都における彦乃(左)と高橋しづ(右)

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ9月15日号より