夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(五)
笠井彦乃が港屋を訪れたのは、恐らく港屋が開店した大正3年10月1日からそう日をおかないころでしょう。港屋は彦乃の家から歩いて10分そこそこの位置にありました。彦乃は日本女子大学付属女学校を退学し、在学中から続けていた池上秀畝(しゅうほ)の画塾通いもやめ、家事手伝いをしていた時期に当たります。
しかし、彦乃の絵に対する思いは強く、当時の女性たちと同様に、そのころ、夢二が『女学雑誌』や『婦人画報』などに描いて評判になった口絵やコマ絵に強く惹かれました。しかも港屋は、夢二の描く絵画や版画だけでなく、夢二デザインの便せん、封筒、千代紙、帯、半襟、風呂敷、傘などさまざまな、いわゆる夢二グッズを陳列していたわけで、若い女性たちの熱狂的な支持を受けたのでした。
彦乃は何度か港屋に通ううちに、夢二にも会い、言葉を交わすようになり、夢二に自分の絵を見てほしいと申し込み、夢二との交際が始まりました。そのころ、夢二にとっては、たまきとの離婚後も同棲を重ねていた関係が破局を迎え、ごたごたを繰り返していた時期でした。
しかし、大正4年3月末、たまきは夢二のもとを去りました。その前後から夢二と彦乃の親密さが急速に増していきました。3月30日の夢二の日記(長田幹雄編『夢二日記』1)に「K」のイニシアルで彦乃が登場します。
夢二は当時の心境について「Kは可憐だけれど、この私の心持を理解するにはあまりにもおさない」と書いています。そして翌日の日記に初めて「笠井」の名が登場し、この日に彦乃が港屋を友人と訪れたことが記されています。
そして、彦乃は、4月9日、女子美術学校日本画科選科に編入学しました。夢二との付き合いのなかから、彦乃は本格的に絵の勉強をしようと思うようになったのでしょう。夢二の強い勧めもあったことでしょう。
女子美術学校での在籍は1年間でした。彦乃は卒業製作に「御殿女中」を描きました。
大正5年1月18日の夢二の日記に「今日は卒業製作のしたがきを持つてくるといふ手紙の当日であつたけれど来なかつた。今日はまあほんとにやさしい純な素直な心でどんなにまつてゐたであろう。」と記し、3月下旬の彦乃宛の手紙(長田幹雄編『夢二書簡』)には「とにかく卒業製作をしつかりうまくやつてほしい。きつとうまく行くとおもふ。それを祈つてゐる。」と書いています。
さらに3月28日の日記には「一昨日は美術学校の卒業製作の展覧会でそのまへの25日に行つたとき、彼女の作品はもう無条件で好いとおもつた」と褒めちぎっています。
この作品は、ほとんど夢二の影響を受けない、彦乃の画家としての出発点を飾る作品であり、凛とした女性を繊細緻密に描きあげた初々しい作品です。
彦乃は「御殿女中」を描き上げたことで絵の修業に熱が入ります。5月には女子美術学校の先輩で、日本画家寺崎廣業の一番弟子といわれた栗原玉葉の紹介で寺崎塾に入門しました。彦乃の父宗重は寺崎廣業の絵を愛していたこともあって、入門を許したのでした。
ところで、彦乃と夢二が深い関係になっていくのを知った父親は、夢二との交際を禁じました。1人娘を溺愛し、結婚相手も決めていた父親は、1時外出をも禁じました。外出には監視が付きました。しかし彦乃は親の目を盗んで逢い引きを重ねました。
卒業制作「御殿女中」彦乃画 清水ハツヨ蔵
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ7月15日号より