夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(四)

笠井彦乃が日本橋区呉服町(現、八重洲一丁目)で巡り合った竹久夢二は、岡山県の生まれでした。

明治17年9月、岡山県邑久(おく)郡本庄村において父菊蔵、母也須能(やすの)の次男として生まれました。本名は茂次郎(もじろう)。彦乃は明治29年生まれですから、年齢差は12歳です。

竹久家の家業は酒造業でしたが、夢二が生まれたころは酒の委託販売業に転じていたといいます。

もともと絵を描くのが好きな夢二は、小学校時代に担任の教師であった服部杢三郎(もくさぶろう)に出会い、彼の指導により絵の才能が開花しました。

明治32年4月に神戸の叔父の世話で神戸中学に入学しましたが、在籍8カ月で早くも12月には退学、翌年一家を挙げて福岡県遠賀(おんが)郡八幡村に移住しました。

福岡での生活は、夢二の満足のいくものではありませんでした。母の計らいで、父には内緒で家を飛び出し、上京。明治35年9月、早稲田実業学校に入学、同38年に卒業し、ついで同校専攻科に進みましたが、この時期、人力車夫をしたり、書生に住み込むなど、苦学をしています。

この年の6月発行の『中学世界』夏期増刊「青年傑作集」に投稿したコマ絵が第一賞に当選しました。この時はじめて夢二の名が用いられました。その後、『月刊スケッチ』『ハガキ文学』などにコマ絵を投稿し、採用されるようになりました。『中学世界』に投稿したコマ絵が当選した翌月には進学したばかりの早稲田実業専攻科を中退してしまいます。この当選を機に、夢二は絵の道を選んだことになります。

『中学世界』からコマ絵の原稿依頼が入り、翌39年に入りますと、東京日日新聞の月曜文壇にもコマ絵を描くようになりました。同40年には『平民新聞』にコマ絵が掲載され、また、読売新聞社への入社も決まり、コマ絵画家としての地位を築きました。

夢二の結婚相手となる岸たまき(戸籍名他万喜)が早稲田鶴巻町に絵はがき屋つるやを開店したのは、明治39年11月1日でした。たまきは明治15年7月、金沢において富山治安裁判所判事岸六郎の二女として生まれました。18歳で美術学校出の高岡工芸学校の絵画教師堀内喜一と結婚し、一女一男を生みましたが、5年後に喜一は病没、未亡人となりました。

たまきは、2児を婚家に残して東京にいる兄他丑(たじゅう)をたよって上京、兄の援助でつるやを開店したのでした。

開店5日目に、夢二はつるやに現れ、たまきと初めて会いました。夢二は毎日のようにつるやに顔を出し、自分が描いた絵はがきを持ち込み、やがてたまきをスケッチする間柄となりました。

翌40年1月、夢二は2つ年上のたまきと結婚しました。それを報じた『平民新聞』(1月24日)によりますと、「ヴィナスの神も氏の心根を憐れとや思ひ給ひけん、遂に大いなる眼の殊に美しき人を配せしめ給ひ、先の頃目出度く結婚の式を挙げ牛込区宮比町(みやびちょう)4番地に新宅を構へたりとぞ、それかあらぬか此頃氏の描く婦人の眼が殊に大きくなりたるは、蓋(けだ)し夫人をモデルとするに依れるなり。」と報じました。

いわゆる眼の大きい「夢二式美人画」の誕生となるのです。翌年2月、長男虹之助が生まれますが、性格の不一致から翌42年5月、たまきとは離婚しました。夢二が生涯正式に結婚したのはたまきだけでした。

  

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ6月15日号より