夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(三)
笠井彦乃の生まれは山梨県でした。甲府盆地の南端鰍沢(かじかざわ)辺りで笛吹川と釜無川が合流して富士川となりますが、その流域の南巨摩(みなみこま)郡中富村西島(現身延町西島)において、彦乃は明治29(1896)年3月29日に笠井宗重、そう夫妻の長女として生まれました。
生母そう
清涼な水の豊富なこの地方は習字用の半紙、画仙紙の生産地として古くから知られ、笠井家も紙関係の仕事に携わっていたものと思われます。笠井宗重は、明治36年に西島での生活に見切りを付けて一家を挙げて上京、笠井彦乃の妹笠井千代氏によると、紙商の「増田屋」の厄介になったのち、間もなく日本橋区本銀町(ぼんしろがねちょう)二丁目7番地において独立して紙商を営んだといいます。
『日本全国商工人名録』(明治31年)によると、「反古紙(ほごかみ)商」の欄に「西島屋大和田新助」(小伝馬町)の名があり、また「紙商」の欄に「竹原屋増田勝造」(室町)の名があります。西島屋の名は出身地からとった可能性もありますし、増田屋の世話になったというのはじつは竹原屋の増田氏であったかもしれません。深読みは慎まなければなりませんが、こうしてみると、笠井宗重が大志を抱いて上京した道筋がわかるような気がします。
商業の中心地、東京日本橋で独立して商売するのは容易なことではありません。郷里の西島の半紙類を仕入れて売ったようですが、当初、妻のそうは三越呉服店(現・三越)裁縫部の仕事を受けて、夫を助けたといいます。
時期ははっきりしませんが、努力が実り、宮内省御用達(ごようたし)となり、「芙蓉社笠井商店」と名乗っていました。宗重の財力と信用が認められたことになります。宗重は努力の人であると同時に、才覚に富んだ人でもありました。紙テープを考案したのは宗重だといわれます。船の出航で別れを惜しんで投げ合うテープといえば、若い方にもお分かりいただけるだろうと思います。
時代は10年ほど下りますが、大正4(1915)年2月、アメリカ・サンフランシスコにおいて万国博覧会が開催されますが、宗重はここに出品しています。
彦乃の少女時代にはすでに父の家業も軌道にのり、彦乃は裕福な商家の娘として育っています。
しかも彦乃は1人娘でした。宗重にとって彦乃は掌中の珠でした。日本橋区立常盤尋常小学校に通うかたわら、当時の日本橋の裕福な商家の娘と同じように、琴、三味線、小唄などの習い事をしています。
彦乃は明治43年に小学校を卒業し、この年、日本女子大学付属女学校に入学しました。彦乃はまた幼い時から絵を描くのが好きで、女学校在学中に日本画家池上秀畝(しゅうほ)につき日本画の修業をしています。父宗重も絵が好きで、とくに寺崎廣業の絵を好んでいましたので、女学校在学中に絵の勉強を許したのでしょう。
ところで、翌年10月、彦乃の生母そうが亡くなりました。彦乃数え年16歳の時でした。そして母の死と前後して、彦乃は女学校を退学しています。理由はなにかはっきりしませんが、笠井家の言い伝えでは、家事手伝いとされています。母が亡くなり、女手を必要としたためとも想像できます。
彦乃は池上秀畝のもとで2年間絵の修業をしていましたので、女学校を退学してからも継続、絵画への思いが強かったことがわかります。16歳の作とされる「はぎと小鳥」は池上画塾での成果ですが、デッサン力にすぐれ、後の彼女の画業を予想できる作品です。
明治45年8月、宗重は河西定代と結婚しました。定代の兄河西博愛とどこで知り合ったかはっきりしませんが、河西家は静岡の出身でした。宗重は山梨時代に商売の関係で静岡へ行くことが多かったといいます。河西博愛は医師で当時、順天堂の医長をしていました。定代も医師になるべく学校に通っていましたが、期待通りにはいきませんでした。そうこうするうちに宗重との結婚話が持ち上がり、結婚したといいます。
それから2年後の大正3年10月1日、竹久夢二が日本橋呉服町に絵草紙屋港屋を開店したのです。そこに笠井彦乃が現れます。
父宗重と彦乃
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ5月15日号より