夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃(ニ)

竹久夢二は、離婚した岸たまきのために、大正3(1914)年10月、呉服橋から3、4軒東に入ったところに港屋絵草紙店を開業したことについては前回紹介しました。

恐らく夢二が書いたと思われる開店の挨拶状には、

下街の歩道にも秋がまゐりました。港屋は、いきな木版絵や、かあいゝ木版画や、カードや、絵本や、詩集や、その他、日本の娘さんたちに向きさうな絵日傘や、人形や、千代紙や、半襟なぞを商ふ店でございます。女の手ひとつでする仕事ゆえ不行届がちながら、街が片影になりましたらお散歩かたがたお遊びにいらして下さいまし。

  外濠線呉服橋詰

      港屋事

        岸たまき

吉日

とあり、四つ折りの裏には「ギヤマンの船だす秋の港かな」の句が添えてあります。

店主は岸たまきでした。

夢二の仲間で港屋の開店を手伝った藤森静雄は、店にはたまきが老舗のおかみらしく眉をおとし、髷も美しく絵のように坐っていたといいます。

店には多くの竹久夢二ファンが訪れました。中でも圧倒的に多いのが若い女性たちでした。

大正、昭和期に『明星』(第二期)や吉井勇の『相聞』(のち『スバル』と改題)などで活躍した中原綾子は、東洋高等女学校在学時代の夢二の人気を語っています。

 わたしたちの女学生のころ、竹久夢二さんの人気というものはまことに大へんなものでした。いまとちがい、歌手とか映画俳優とか、運動選手とか、人気の対象になる存在がなかったせいもありましょうが、当時若い女の子たちの気もち、夢やあこがれや哀愁、といったものがじつによくとらえられ、好もしく描かれていて、その絵がまるで自分自身のものでもあるような錯覚を抱かせられたということが愛好された第一の原因だったかと思われます。仲のよいお友達へ出す便りには夢二えがくところの絵葉書を以てするのが何よりのこととされていました。

「夢二さんの思い出」(秋山清著『竹久夢二』より引用)

若い女性が多いなか、中年女性や男性にも根強いファンがいました。

伊藤?子(あきこ)といっても知る人は少ないかもしれません。つまり宮崎?子(柳原白蓮)ですが、?子も夢二ファンでした。

?子は伯爵柳原前光の次女として生まれ、和歌を佐佐木信綱に師事し、美貌と才能に恵まれた人でした。27歳で25歳年上の九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と結婚し、「筑紫の女王」と呼ばれましたが、大正10年、6歳年下の東京帝国大学学生宮崎竜介と恋愛し、当時一大恋愛事件としてさまざまな反響を呼びました。

九州にいた伊藤?子は、頻繁に東京に出てきていました。

31歳頃の?子はしばしば港屋を訪れ、夢二の作品を求め、また、羽子板に紙屋治兵衛の芝居、小春との道行きの段の絵を描いて貰ったりしています。

男性の間にもファンがいたことは前回の仲田定之助の思い出からも分かりますし、夢二作品の著名な収集家はほとんど男性でした。

画家を目指していた笠井彦乃は、港屋を訪れた多くの夢二ファンの一人でした。

港屋の店先のたまき(大正3年)

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ4月15日号より