水に生きる人びと (二)
佃島を望む、船の賑わい「風俗画報」より
水に生きる人びとの生活について触れる前に、もう少し河岸地について見ていきましょう。
「新川」といってもすでに50年以上前に埋め立てられて、むかしの姿を見た人も少なくなったことでしょう。日本橋川(北新堀川)の南側、日本橋川に並行して亀島川から隅田川に通ずる細水路です。新川一丁目の地内にありました。新川は江戸時代から酒問屋の街として栄え、とくに関西方面から回漕されてきた下り酒の荷揚げ地として知られています。酒樽の檜の香ただよう新酒の時期になりますと、新川一番乗りを目指して先を競い、新川の河岸地は大変な賑わいを呈したといいます。樽廻船によって江戸湊まで運ばれた酒樽は小船に積み替えられて新川まで運ばれたのです。
また、河岸地には、木更津河岸とか行徳河岸というように、千葉県の地名から採った河岸地があります。木更津河岸は、最初木更津村の水主らが慶長19(1614)年の大阪冬の陣に勲功をたて、そのため木更津付近の城米2万石の運送権と旅客輸送の特権をえて、江戸橋から日本橋にかけての北岸本船町河岸(魚河岸にあたる)の使用権をえました。しかし、その後、本船町の者と争いが生じ、訴訟の結果、対岸の四日市河岸のところに船着場を拝領しました。木更津船と呼ばれたその船は、舳へさきの水押が円みをおびていて、ほかの船との識別が容易で、江戸湊に出入りする船は木更津船とみれば、除けて通ったといいます。
行徳河岸は、日本橋小網町のはずれにあたり、今は埋め立てられてありませんが、中洲との間の川(箱崎川支川)の河岸地でした。徳川家康は、江戸における塩を確保する目的で行徳塩浜の塩を早急に江戸へ回送するために、小名木川の開削を命じました。小名木川の舟運が増加するにおよんで、寛永6(1629)年には二之江村から江戸川河口までの間に新たに水路を開きました。これが小名木川支川で、隅田川と江戸川とを結ぶ直線のこの水路は、安あわ房、上かずさ総(以上千葉県)、下しもうさ総(千葉県と茨城県にまたがる)、常ひたち陸(茨城県)方面の江戸への水上通路として重要な役割を果たしました。小大名たちの江戸参府や、役人、庶民たちの往来に利用され、収益も大きいところから、江戸川筋の村々では冥加金を上納して回漕業を独占しようとする動きが見られ、結局、寛永9年に交通上の要路にあたる本行徳村が幕府の許可をえて、江戸行徳間の小荷物運搬と旅客輸送を独占することとなりました。これを行徳船といい、下総の本行徳村から江戸の日本橋小網町三丁目の行徳河岸までを毎日往復しました。行徳に一泊した旅人は翌朝五時ころの一番船に乗って江戸へ向かいました。船は24人乗りの茶船で何往復もし、江戸と房総、常陸方面と結ぶ重要な水路でしたが、明治12年廃止となりました。
このように河岸地は物資の積み降ろしや、保管の場所、あるいは船の発着所として重要な役割を果たして来ました。
江戸の市民、とりわけ江戸湾に面した日本橋、京橋、芝、品川、大森、深川、江戸川地域には、海、河川含めて水との深い関わりをもち、漁民、回漕・水上交通に従事する人、船宿など遊楽にたずさわる人など、水に生きる人びとが多数いたことがわかります。
このシリーズでは、江戸・東京の市民生活、とりわけ江戸・東京の経済を支えた水上輸送にたずさわった人びとについて述べたいと思います。
「水上生活者」という言葉を耳にしなくなって久しいという思いは私だけではないでしょう。四六時中船で生活する人びと、陸地に住居を持たず、船の上で生活する人びとをこう呼びました。その大部分は大型船から積み荷を積み替え、河岸地に運ぶいわゆるはしけ船(艀船)で生活する人びとでした。江戸時代にも水上生活者と思われる人びとがいたことは想像できますが、その起源はわかりません。
水上生活者のことが話題になり、その存在が注目されるようになるのは明治時代に入ってからのことです。安政6 (1859)年横浜が開港し、外国からの輸入品が江戸に回漕されるようになり、さらに明治維新以後、日本の近代化が進みますと、東京への物資の移入量が飛躍的に増大しました。陸上での大量輸送手段が発達しない時代でしたから、そのほとんどが水上輸送に頼らざるをえませんでした。
永代橋下流の湊には大型船が船ふなべり縁を接して停泊する光景が見られるようになりました。大型船から物資を受け取り、問屋や工場の倉庫に運ぶわけですが、倉庫の手配がつかず、積み荷を陸揚げできず、積み荷を積んだまま河岸地に係留することもありました。江戸時代に比べてはしけ船の需要は飛躍的に増大したのです。
水上生活者のなかには入りませんが、同じく水上で物資の輸送に貢献した筏いかだ流しの人びと、筏師といいましたが、深川の木場をひかえ、この人たちが隅田川を遡りました。筏師についても触れたいと思います。
新川酒問屋 「江戸名所会図」より
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ10月15日号より