夢二 永遠の女(ひと) 笠井彦乃

 笠井彦乃、この人は竹久夢二とかかわりを持った女性の中で、「最愛の女」、「永遠の女」といわれ、「最良の伴侶」ともいわれる女性でした。

 笠井彦乃が竹久夢二と出会ったのは日本橋区呉服町2番地(現・八重洲一丁目2番)にあった絵草紙店港屋でした。港屋は離婚した最初の妻岸たまきの生計の支えとして大正3(1914)年10月1日に開店し、いわゆる夢二グッズを販売しました。

 現在、その跡地近くに港屋の記念碑が建っています。港屋がどのような店であったか、同時代にこの近くに生まれ育った美術評論家でエッセイストの仲田定之助は当時夢二ファンでもありましたが、彼の語るところによると、次のとおりです。

 外濠に架かっていた石造りの呉服橋から日本橋一丁目に通ずる呉服町の北側、河岸の角から三丁目(三丁つまり三町のことか、一町は109メートルとして327メートルの距離のことであろうか−引用者)あたり、土蔵造りの橋本釦(ぼたん)問屋の隣りに竹久夢二の港屋絵草紙店が開かれたのは大正の初めごろだった。

   −中略−

 港屋の店舗は木造2階建で、間口は5メートルくらいもあったろうか。軒上には夢二自身の瀟洒な書体で港屋と浮彫りした木の看板が揚がり、軒下にはこれも港屋絵草紙店と右からの横書きを染め抜いた短い暖簾が掛かっていた。店の両翼にはシンメトリーに1メートルくらいずつの飾窓が、そして店頭の中央にはショウケースが設けられていた。そしてこれも港屋絵草紙店と書かれた、長さ1.5メートルもある大提灯が目印として吊るされていた。

 仲田定之助著『続明治商売往来』昭和45年

 この本で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した仲田の観察は詳しい。店の内部は普通の絵草紙屋とは異なっていました。

 絵双紙屋とはいえ、そこらの錦絵を店先につるしたり、並べているのとは趣きを異にしていた。彼の肉筆になる帯、半襟、彼の創作図案による浴衣、手拭、風呂敷などの染織品から、自作の木版画、千代紙、便箋、封筒などを商っていて、小さな飾窓には肉筆の色紙、団扇、また時には彼が恩地孝四郎らと共に出していた版画と詩の季刊同人誌が陳んでいるのを見たこともある。

 同右

 港屋の開店は、当時すでにたいへんな人気を呼んでいた竹久夢二が開いた店ということで評判となりました。

港屋記念碑

前回記述について

 2月15日号の「日本橋(十)」の戦災被害についての記述について区民の方から次のような指摘を受けました。私は日本橋の麒麟の鰭が空襲で被弾したと書きましたが、区民の方の記憶では、日本橋に焼夷弾が降り注いだのは3月10日のいわゆる東京大空襲の時で、その時には戦時の金属回収ですでに麒麟は撤去されていたようだとのことです。戦後、麒麟は築地の河岸に集積されていたのが発見されて元に戻ったとのことです。

 私は伝聞によって書きましたので、事実と反するかもしれません。区民の方も麒麟の鰭が何時壊れたのかはっきりとは分からないといわれます。

 麒麟の鰭の破損は何時だったのか。日本橋の金属回収は何時だったのか。日本橋への空襲は何時だったのか。焼夷弾の被弾は何発だったのか。これらの事情をご存じの方がいらっしゃいましたら情報をお寄せください。

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ3月15日号より