日本橋(十)
大正12(1923)年9月1日、関東地方を襲った大震災は中央区に甚大な被害をもたらしました。
日本橋はまったく無傷とはいかないまでも、立派に立っていました。大正12年10月1日に発行された大日本雄弁会講談社(現・講談社)編纂「大正大震災大火災」には同社の記者が震災翌日の都下の被害の状況を視察したルポルタージュ「死灰の東京市めぐる 災害翌日の大東京」が掲載されていますが、日本橋の状況について次のように書いています。記者が自動車で丸の内から呉服橋にかかった時、橋のたもとのコンクリート造りの公衆便所のところで30数人の死体を見ています。
鼻をつく悪臭を忍びつヽ、更に白木屋前を三越前に出ると、きのふまで繁華の中心だつたこの一帯は、日本橋がわずかにそのおもかげをしのばすのみで、満目荒寥(まんもくこうりょう)、一場の焼ケ野原、そのなかに、まだ火焔と煙にまかれつヽ、三越や三井物産など、いくつかの大建物が立つてゐる。 もう一人、銀座八丁目にあった十五銀行本店の庶務課長をしていた染川藍泉(春彦)が綴った「震災日記」9月1日の記述を紹介しましょう。
森、森村、加島など云ふ銀行は、皆外殻を残して燻ってゐる。高島屋や白木屋などは形も残して居らぬ。丸善の建築などは実に惨憺たるものである。(中略)
村井銀行も残骸のみで、大倉書店や、西川などは、煉瓦の所だけが僅かに残って居った。(中略)日本橋の上から後を顧みると、凡有る大厦高楼は悉く焼失して、余焔はまだ盛に煙を揚げて居て、遠望すると凄絶惨絶と云ふ風であった。
関東大震災の12年前、設計主任技師として構造設計に当たった米元晋一は、震災の翌々日、瓦礫累々たるなか、日本橋にやってきてその無事を確かめました。帰宅した米元は家族に日本橋は無事だった、と嬉しそうに話したといいます。従来からの大理石をただ組み合わせるだけの石拱橋の工法の強堅さが実証されました。なお、橋畔にあった辰野金吾設計(大正4年完成)の帝国製麻は、火はまわったものの、躯体は残り、復興後も以前に変わらず、日本橋と調和した姿を昭和62年まで川面に映し続けました。
震災から22年、戦争の惨禍をくぐり抜けて、日本橋は健在でした。東京は幾たびもの空襲で大きな被害を受けました。中央区ではとくに日本橋地区においてひどく、日本橋は空襲で焼夷弾を数発受け、麒麟の鰭に被弾し、損傷を受けましたが、橋自体は無事でした。戦後、鰭は修復されたものの、鉄筋を入れたコンクリート製でした。長らくそれに耐えてきましたが、架橋88周年を期に、平成11年、獅子、麒麟像や照明などの装飾品の修復がなされ、麒麟の鰭も復元されました。
これより前、80周年記念行事として橋の四隅に「滝の広場」、「花の広場」、「原標の広場」、「乙姫の広場」が整備され、妻木頼黄がひそかに目論んだ川面からの眺望が四隅から眺められることになりました。
平成11年正月、恒例の東京箱根間往復大学駅伝競走の復路のコースが中央通りに変更となり、日本橋橋上を駆け抜けることとなりました。
近年、日本橋を中心に「日本橋ルネッサンス」の掛け声のもと都市開発が進んでいます。また、橋上の首都高速道路の撤去も現実味を帯びてきました。日本橋は架橋百周年の平成23年にはどのような姿になっているでしょうか。
最後に、大正11年8月「淑女画報」に掲載された日本橋を詠んだ詩を掲げてこの稿を終わりとします。
今昔日本橋 魚河岸
高橋 仁あかあかと
日に照りかへる
橋の上、
走る電車は
りんりんと、
麒麟の像に
燈柱に
日に照りかへる
あかあかと
煉瓦の屋並
倉庫の影
上汐時の水の上
沈む鴎は紫に
けぶる江戸橋
舟もやふ
新場の河岸に
屋台店
鮪の切身
した丶る灯
歳暮の大雪(日本橋)大正元年
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ2月15日号より