日本橋(九)

 アート・ディレクターとして石橋日本橋の装飾の全体像をまとめたのは建築家妻木頼黄(よりなか)でした。東京、いや日本の中心の橋、日本橋の完成に東京市挙げての熱狂的な祝賀とは裏腹に、新日本橋に対する建築専門家の評価は低いものがありました。それについては前回述べたところです。

 妻木頼黄は、安政4(1857)年江戸で生まれました。妻木家は代々美濃国妻木郷に住み、徳川氏に仕えた旗本の出で、かれの父源三郎頼功は長崎奉行を勤めた人でした。明治11(1878)年に工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)第6回生として入学しましたが、間もなくアメリカ、ニューヨークのコーネル大学へ私費留学し、同17年に同大学建築学科を卒業、ヨーロッパを回って帰国し、東京府御用掛(ごようかかり)となりました。

 同19年にはヨーロッパ留学を命ぜられ、2年後に帰国しますが、研究のかたわらヨーロッパ各地で多くの代表建築を見てきました。その後、大蔵省に移り、総務局営繕課長、同臨時建築部長となり、官庁営繕の総元締めとして絶大な力を発揮しました。臨時建築局は議院(議事堂)建築の建設計画を司るところで、妻木はその中心にいたわけです。

 日本橋の改架が日露戦争後の国威高揚を背景に、首都にふさわしい橋をという声に押されて実現したのと同様に、日清、日露の戦争の出費で延び延びになっていた議事堂の建築も、国政のシンボルとしての存在にふさわしいものをという機運がおこり、この時期現実味をおびてきました。

 明治41年頃、木造であった議事堂を本建築にする計画が議題にのぼりました。その時、妻木は臨時建築部長として議事堂の設計をほぼ手中に収めていました。

 しかし、この時、日本の建築教育の中心であった東京帝国大学建築科と、建築アカデミーである建築学会との中心人物辰野金吾らの猛反対にあい、議事堂のような日本国を象徴する建造物の設計は、懸賞設計(コンペティション)により公明正大にやるべきだという意見がおこりました。これらの動きは、前回紹介した日本橋の装飾は「懸賞競技」の方法でやるべきだったという某工学博士の主張と軌を一にするものです。

 なお、辰野金吾は、幕末維新期の雄藩肥前唐津藩の藩士の子として生まれ、工部大学校造家学科でお雇い建築科コンドルに学び、明治12年に卒業、ただちにイギリスに留学し、帰国後母校の教授となりました。辰野は日本銀行本館を設計し、日本人として初めて国家的建築物を完成させました。この時すでに、辰野は自他共に建築界の重鎮と認められていました。

 議事堂建設と日本橋改架の時期が重なり、日本橋は妻木頼黄が手掛け、議事堂も妻木中心で建設が進むかに見えたところで、辰野金吾らの意見が入れられ、懸賞設計競技で優秀な建築家を見出し、その人物を臨時建築局に雇い入れ、改めて設計・監理するということとなりました。

 ところで建築評論家の長谷川(たかし)はその著『都市回廊』のなかで、妻木が日本橋の装飾で何を意図したかについて論じています。以下その紹介です。

 妻木の補佐役であった小林金平によれば、妻木は設計にあたり、大きな図を描いて物干し竿に掛けて遠くから眺めて推敲添削し、それでも満足しないで50分の1の橋梁模型を作り、また装飾柱の原型をみずから粘土を練って作り上げるなど、心血を注いでこれに当たったといいます。

 できあがった日本橋が建築学界から酷評されたことはすでに紹介したとおりです。早稲田大学教授の佐藤功一が「下を通る船の中でなくては見えない橋の裏側に無駄が多い」といったのは長谷川によれば、妻木がアート・ディレクターとして隠し持っていた真の意図をまさしく言い当てたことになります。すなわち、妻木は日本橋の総合的デザインを「人や電車が快活に通り抜ける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の川面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想し、すべての〈意匠〉を決定しようとしていたのではないか」とされます。妻木は陸からではなく、川面からイメージして設計したというのです。

 妻木は工部大学校造家学科に入学しながら、私費留学により卒業しなかった人物であり、しかも傍流でありながら国立の建築家養成機関の卒業生を差し置いて官庁建築の重要なポストにあったのに対して、辰野らが面白く思わなかったことは頷けます。しかも妻木は江戸生まれの旗本の子、かたや辰野は江戸幕府を倒した肥前唐津藩の藩士の子でした。「田舎者」が築いた明治という都市の中で、江戸の「都会人」妻木は日本橋の建設に当たって江戸文化という蓄積された文化的力量を示そうとしたのです。これに対して辰野は、滅び去った虚弱な江戸人ではなく、質実剛健なものを目指したわけですから、議事堂建設という国家の威信にかかわる事業に対して一歩も引けない立場にあったのです。仮定の話はつつしむべきですが、辰野が日本橋を設計していたならば、恐らくより西欧風の重厚さを持った橋になったことでしょう。

 ここで、妻木と辰野の建築家としての業績について触れておきましょう。妻木は、公職にあって建築設計に関与したものに東京府庁、巣鴨監獄、広島仮議院、横浜税関などがあり、私人としては横浜正金銀行本店(現在の神奈川県立博物館)、日本勧業銀行、日本興業銀行、十五銀行日本橋支店、丁酉銀行、日本赤十字社、商業会議所、伊達伯爵邸、徳川公爵本邸などのすぐれた作品が多くあります。しかし現存するものは少なく、中央区内では皆無となり、建造物として唯一残るのが日本橋です。

 辰野の作品は、日本銀行、東京駅の代表作を始め、生涯設計した建造物は数え切れないほどの数にのぼりますが、辰野の建築家としての出発点は日本橋区です。辰野の最初の建築が明治十八年に日本橋区坂本町(現・兜町のうち)に建設された銀行集会所です。

 そして日本橋が完成して間もなく、辰野によって日本橋北詰に添って薄く細長い煉瓦作りの建物が建設されました。それが帝国製麻ビル(現・大栄本社ビル)です。辰野はこれを設計するにあたって日本橋川をベニスの川に見立てて行ったといいますから、妻木の構想と共通点を持っていたといえます。ベランダ風に張り出した各階の窓は日本橋川に映り日本橋と調和して、見る人の心を和ませてくれました。辰野は妻木の意図を見抜いていたともいえましょう。それも今は建て替えられ昔の面影はありません。

 なお、辰野の最後の作品が大正10年に南伝馬町三丁目(現・京橋三丁目)に建設された第一相互館です。第一相互館は関東大震災で類焼したものの、構造部分は残り、その堅牢さを証明しました。この建物も建て替えられ、今はありませんが、辰野の最初と最後の作品が奇しくも中央区であったことは興味深いことです。

絵はがき「日本橋」(東京名所より)

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ1月15日号より