日本橋(八)

 明治44年4月、完成した日本橋の評判はどうだったでしょうか。日本橋開通式当日の熱気とはうらはらに新生日本橋に対する当時の専門家の批評は厳しいものがありました。

 『読売新聞』4月2日号は、開通式に先立ち「記念建造物としての日本橋」と題して、工学士田辺淳吉が寄稿していますが、田辺はそのなかで、「新しい日本橋の此(こ)の新しい試み(装飾的要素を取り入れたこと−筆者)は国民の美的常識を高め、帝都に美観を添へるといふ点に於(おい)て与(あずか)って大に力ある」としながらも、「根本に於て大きな間違いが二つある。其(そ)の一ツは橋のペーヴメント(舗道)を境として上下が丸で一致を欠いて居いること、其二は将来の日本橋の周囲の変化に対する考が足りなかった事から起る失敗である」と、灯柱の青銅の黒と花崗岩の白の不調和と、将来変るであろう周囲の建物の高層建築に対して貧弱になるという点など、装飾上、様式上の問題点を指摘しています。

 また、同紙4月3日号には、匿名の工学士の「建築家の見たる
日本橋」というインタビュー記事を載せています。匿名氏は「第一雄大宏壮の気魄が微塵も無いぢゃありませんか」として、電灯柱は「繊巧」に過ぎ、麒麟も「奇醜」というべき趣があり、とくに「電灯柱の腕の曲線はいきんでゐる様で、或る若い建築家が野糞をたれていると云ったのも適当な悪口かと思ひます」、「斯こんなものを出来(でか)したのは、私も建築家の一人として遺憾に堪へません」と酷評し、最後に「懸賞競技」で広く優秀な図案を募集してもらいたい、と結んでいます。匿名をいいことに云いたい放題の談話の趣があります。

 さらに、4月12から14日号には、早稲田大学建築家主任教授佐藤功一が、新日本橋を評して、「先づ第一、下を通る舟からで無くては見え無い橋の裏側の方、つまり人々の歩く表面と反対の側、即(すなわ)ち水に向いて居る方にまで花崗岩の立派な切石を惜気もなく使ってあることなどは、慥(たしか)に無駄な費用であって、少し口が悪いやうであるが、下世話に云ふ『溝の中へ金を投げた』やうな嫌(いやみ)が無いでも無い。・・・それから浮いて来る金を以て比較的寂しい橋の両袂を飾るやうにした方が遙に得策であったやうに思はれる」と批判しています。

 このように建築家など専門家の間では、日本橋の様式上、装飾上の点について厳しい批評が多かったのです。

 前回触れたように、橋の様式、装飾を担当したのは建築家妻木頼黄(よりなか)でした。当時の新聞に載った建設当事者の談話は、工事主任技師米元晋一、同技師長日下部弁次郎のものが多いなかで、妻木の談話は『時事新報』のみのようにみられます。

 妻木は、自分が日本橋改架に関与することになった経緯について「東京市の土木課技師長日下部弁次郎氏が相談を掛けられたので、日本都市に有名な橋梁として日本一の橋として恥かしくないやう日本趣味を帯びた装飾を施す必要があらう。即ち其(そ)の装飾に属する部分は専門の建築家に設計を託するのが善からうと注意を与へた処、日下部氏も之に賛成し、而して今回の新日本橋に依って始めて建築家及(およ)び美術家が橋梁工事に参与すると云ふ一新紀元を画した」と述べています。そして、装飾については、「我帝都の現状は未だ市区改正の半途にある、云はば未成品であるから新架橋の様式をして之れに調和せしむるの甚(はなは)だ困難であるのみか、橋梁夫(そ)れ自身に就ても将来大おおいに発達すべき帝都の偉観となるやう、又江戸名所の一として300年来の歴史を有する古蹟を回顧せしめたくもあり、兎(と)に角(かく)日本趣味を以て壮麗典雅の景致を表はしたいと云ふ考で製作したのである」と述べています。

絵はがき「日本橋」(東京名所より)

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ12月15日号より