日本橋(七)
新生日本橋は、明治41(1908)年末に着工し、同44年3月の竣工まで2年3カ月を要し、当時の金で52万円余の工事費と延べ10万人の労働力を投じて完成しました。設計の段階で橋の構造、様式、橋上の装飾をどのようなものにするか、大きな問題でした。いつの時代にも新旧両様の意見の違いがみられるものですが、日本橋改架にあたっても例外ではありませんでした。
江戸時代の面影を残して、高欄擬宝珠の形がよいとするものと、新様式の採用を主張するものとの間に意見が分かれました。木橋ではますます増える電車などの重量や交通量に耐えられないし、擬宝珠は木橋でこそ映えるもので、洋式の橋にはふさわしくない、などの理由で、結局、新様式を採用することとなりました。これが現在に生きる石橋日本橋です。
橋上装飾については、太田道灌と徳川家康の像を置こうという有力な意見や、あるいは黄金を用いて架設すべしという突飛な意見もありましたが、結局、現在の獅子と、中国の想像上の動物麒麟を用い、 方柱には松と榎をあしらいました。江戸の初期、日本橋が諸街道の起点となったとき、街道の一里塚に榎を植え、街道の並木として松を採用したことにちなんで選ばれたのでした。麒麟には翼がないのが普通ですが、日本橋が里程の元票であるところから、天翔(あまかけ)る意を表すために翼(実際には鰭(ひれ))を付けました。そして、橋の表面に露出する部分は敷石にいたるまで、すべて花崗岩を用いました。
工事責任者には東京市技師長米元晋一、ついで日下部(くさかべ)弁二郎があたり、獅子と麒麟の原型製作については東京美術学校に依頼し、教授の渡辺長男、岡崎雪声らが主として担当しましたが、装飾と様式全般については、大蔵省臨時建築部技師長妻木頼黄(つまきよりなか)が終始アート・ディレクターとしての立場で指導にあたりました。できあがった橋は、「純然たる西洋趣味も採らず西洋美術の骨格に日本趣味の筋肉を取合せたるもの」(米元晋一「新日本橋の架換」
『日本橋紀念誌』明治44年)となりました。世にルネッサンス式といわれる橋はこのようにして完成しました。橋にこのような装飾を試みたのはわが国最初のことでした。開通式は4月3日におこなわれ、日本橋区では区民挙げてのお祭り騒ぎとなりました。目抜き通りの軒々にはずらり提灯が下げられ、橋はイルミネーションで飾られました。日本橋が夜空にくっきり浮かんで見えたといいます。
落成式の日はあいにく小雨模様でしたが、市民が多数集まるなか、橋南詰に設けられた式場において、式は橋梁課長の工事報告に始まり、尾崎行雄東京市長の式辞、東京府知事、市議会議長、日本橋区長、徳川家達(いえさと)貴族院議長、その他の来賓の祝辞があり、その後、尾崎市長の先導により、この日晴れて選ばれた木村利兵衛家三代の夫妻はじめ来会者の渡り初めがあって開橋式は終わりました。
ついで呉服橋内の祝賀会場において祝賀会が催され、模擬店の饗応のなか、歌舞伎役者や芸者たちの手踊りがあり、花を添えました。
一般の人たちは午後三時ころより通行が許され、それと同時にわれ先にと押し寄せ、「忽(たちま)ち黒山となり、絶えず万歳の声川面に響けり、夜に入りては各戸ともイルミネーションを点じ爛漫たる桜花の夜の眺め美くしさは言はん方なきに、益々人出を増し駿河町(現、室町二丁目)より中橋(現、京橋一丁目)付近までは全く前にも後にも身動き出来ざる大盛況を呈した」(文中のイルミネーションは提灯のことか)というありさまでした。
改築工場拱石巻立中の光景(明治43年4月25日撮影)
「日本橋紀念誌」より
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ11月15日号より