日本橋(五)

 前回は江戸時代の日本橋のにぎわいと明治6年(1873)5月に架け替えられた日本橋について紹介しました。図版の錦絵からわかりますように、明治6年の橋は、木橋で、中央を車馬道、両側を人道(歩道)とし、人道・車馬道の三道に分割し、その間を欄干で仕切りました。

 今回掲げました図版は、明治9年10月執筆(10年5月出版)の岡部啓五郎編『東京名勝図会』のなかの木版画です。改架されて3年後の様子を描いたものです。図は京橋方向を描いています。図を見ますと、確かに人道と車馬道が区別されていますが、欄干は取り払われています。交通の安全からいいますと、欄干があるほうが安全ですが、いかにも不便だったのでしょう。いつの段階で取り払われたかわかりませんが、人道を少し高くして通行人の安全を確保する工夫がなされています。

 この図をもう少し説明しますと、橋の親柱には擬宝珠はなく、それにかわってガス灯らしきものがあります。明治8年3月には銀座からの延長で日本橋通りにガス灯が敷設されていますので、これは石油灯ではなく、ガス灯でしょう。

 また、左側には電柱と電線とおぼしきものが描かれています。電気の普及は明治20年代になってからですので、電灯線ではありません。それは電信線でした。明治2年末に横浜裁判所から東京築地運上所(うんじょうしょ)の間に電信線が架設され、通信が始まったのはよく知られていますが、その後明治5年5月に日本橋際東側角に日本橋電信局が開設され、築地から電信線が延長されたのです。図の手前電柱際の建物が日本橋電信局です。電信線がここで分岐されているのがわかります。

 さらに気になることがあります。電信局手前の日本橋際に高札とみられる立て札何本か立っています。江戸時代初期以来、高札場は橋の南際北側でした。つまりこの図でいいますと、反対側になければなりません。明治の代になって高札場が東側に移動したのかと一瞬とまどいますが、よくよく見ますと、北側に小さく屋根付きの高札場があります。電信局前の立て札は通信の里程や賃銭などを掲示したものだったのです。一枚の図から時代を読み取ることは案外難しいものです。なお、前回に載せました錦絵にも日本橋電信局が描かれています。

 話を元に戻して、明治5年、明治政府はあらためて太政官達(だじょうかんたつ)をもって「道路建設の件」を定め、翌6年12月に「里程表の位置及(および)記載の法」を示し、「東京ハ日本橋、京都ハ三条橋ノ中央ヲ以テ、国内諸街道起程の元標トナシ」と規定しました。江戸時代に引き続き、全国里程の起点となったのです。

 幕末維新の混乱で一時人口が減少した東京もこのころ活気を取り戻し、日本橋のにぎわいは江戸時代を凌ぐほどとなりました。明治10年には銀座煉瓦街も完成し、明治15年6月鉄道馬車が新橋、上野、浅草間に開通しました。鉄路を敷設し、そこに15、6人乗りの客車を馬に曳かせるという当時としては大量・迅速な交通手段が登場し、日本橋を行き交いました。

明治10年ころの日本橋『東京名勝図会』より

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ9月15日号より