日本橋(四)
慶長8年最初に架けられた日本橋の様子を『慶長見聞集』は「この橋においては昼夜四六時中、諸人群をなし、 踵 ( きびす ) をついで往還絶えることなし」と橋上の賑わいを記しています。日本橋を中心とした日本橋の繁栄は日に日に増していったことが分かります。交通量も増して老朽化も進み、また、日本橋の繁栄につれ創架当時の橋が見劣りしてきた事情があり、創架から15年経過した段階で元和4(1618)年の改架となったと思います。
寛文2(1662)年につくられた『江戸名所記』には「橋のうえは貴賤上下のぼる人くだる人ゆく人帰る人馬のる人の行き通うこと蟻の熊野まいりのごとし、あしたよりゆうべまで橋の両脇一面にふさがり、押し合いもみ合いて、しばしも足をとめて立ち止まることあたわず。うかうかと構えたるものは踏み倒され蹴倒され、あるいは帯を切られ、刀わきざしを失い、あるいはまた巾着をきられ、または手に持ちたる物をもぎとられ」云々と、誇張をまじえて描写しています。
井原西鶴の『日本永代蔵』は元禄元(1688)年の作ですが、日本橋がはじめて架けられてから約85年経過しています。井原西鶴は、その中で、この橋の上に馬乗一人、出家一人、 鑓 ( やり ) 一筋が朝から晩まで絶えることがない、と書いています。
江戸幕府は、寛永12(1642)年に武家諸法度を改正して参勤交代を制度化しますが、これにより江戸の人口増加が加速し、江戸の繁栄をもたらしました。
しかし、明暦3(1657)年の大火により江戸の繁栄は 灰燼 ( かいじん ) に帰しました。大火後、寺院や遊郭(吉原)を郊外に移し、大川(隅田川)に両国橋を始め、新大橋、永代橋を架け、本所深川地区の開発に乗り出すなど江戸の大改造を行っています。江戸の区画は拡大し、日本橋はその中心に位置すると同時に、江戸の繁栄の象徴となりました。
3年前に東京は江戸開府400年を祝いました。江戸開府と日本橋の創架は同時ですので、現在まで403年間の歴史をもつことになります。この間、焼失による架け替え、老朽化による改築・修復など、幾多の変遷を経てきました。記録に残っているものだけで、明治44(1911)年の石橋になるまで19回を数えます。そのうち約半数は半焼を含め焼け落ちています。
江戸時代の橋には、幕府が費用によって架設、維持管理した、いわゆる御入用橋と、武家や寺社や町々が組合を作って費用を出し合い、架設、維持管理した 組合持橋 ( くみあいもちばし ) があり、そのほか武家、寺社町人が個人でつくって維持管理する一 手持橋 ( てもちばし ) がありました。江戸城の内堀、外堀に架かる橋と、日本橋、京橋、江戸橋、浅草橋、両国橋など府内の主要な橋は御入用橋でした。元文元(1736)年に、これらの橋の普請費用をそれまで定請負人に800両で請け負わせていたのを、200両増額して1,000両としたところから、千両橋といわれました。
文化3(1806)年に改架したときの費用は、409両3分と永246文3分であり、この中には材木の費用は含まれていません。材料費を加えますと、総額は1,000両になったと思われます。なお、この時、工事に費やした日数は、7月29日から10月29日まで88日間で、そのうち11日は雨天のため休み、差し引き77日間で完成させています。
時代は変わり、明治6(1873)年、東京が首都として安定を取り戻したこの時期に、洋風を取り入れ、装いも新たな日本橋が誕生しました。注目すべき点は、人力車・馬車など新しい交通手段の登場、交通量の増大など新しい事態に即して、車馬道と人道を区別し、その間を欄干で仕切り、洋風に仕上げたことでした。仕切りの欄干は交通に不便であったらしく、後の修理の時に取り払われ、車馬道を低くし、人道と区別したようです。
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ8月15日号より