日本橋(三)

 前回、鷹見安二郎氏と池田弥三郎氏の日本橋の橋名由来説を紹介しました。池田弥三郎氏は、日本橋は最初二本丸太を渡した程度の橋「二本橋」であっただろうといわれます。その粗末な橋は、おそらく工事用のものでしょうが、日本橋川の川幅からいって丸太二本を渡した程度のものでは用をなさないでしょう。二本が三本となり四本となっても、最初の「二本橋」の名称が残ったというのでしょうが、無理が残るように思います。

 ところで、鷹見氏の結論といい、池田氏の推論といい、『慶長見聞集』を根拠としています。「誰いうとなく日本橋と呼ぶようになった」というのが現在の大方の見方といってよいでしょう。

 日本橋橋名由来説を考える場合、日本橋が完成した慶長8(1603)年の翌年2月にこの日本橋を五街道の起点と定めたことが決定的と思います。日本橋を五街道の起点と定めた時点で、日本橋の名は幕府により正式に追認されたとみてよいのではないでしょうか。

 江戸城も整備され、その城下にふさわしい日本橋が架けられ、日本橋川以南の造成工事が進むにつれ、日本橋が江戸城下町の中心になりました。『北条五代記』によりますと、慶長11年12月8日、武州江戸日本橋に永楽銭の通用禁止の高札を建てたことがわかります。最初は高札場というほどのものではなく、たんに橋の畔に立て札を立てたにすぎなかったでしょうが、やがて石垣を築き柵を設け屋根を被った永久的な高札場が設けられました。

 つぎに、慶長8年に架けられた日本橋の大きさ(規模)はどうであったか、どのようなかたち(構造)をしていたかといいますと、これまたはっきりしないのです。

 かりに日本橋が丸太を二本渡しただけの橋だったとして、その橋は土橋であった確率が高いというのは宇野脩平氏です(『朝日新聞』文化欄昭和39年10月1日)。その根拠は、防火上から江戸に木橋の上に土盛りした土橋が多かったこと、また飛脚制度の始まりにふれた飛脚問屋の記録(「飛脚問屋惣まくり」)に「御府内いまだ町名もさだかならざる時節、日本橋土橋にて有りける頃、河原に 莚 ( むしろ ) をしき、諸国よりの言伝えたる書状、荷物の類、届けたり」とあることによります。町飛脚の起源は元和元(1615)年頃までさかのぼれますから、慶長8年の日本橋は土橋の可能性があるというわけです。

 日本橋の規模および構造についてふれた最初の記録も『慶長見聞集』と思われます。同書に「この橋の再興は、元和4年 戊午 ( つちのえうま ) の年なり、大川なればとて河中へ両方より石垣をつき出しかけたもう。敷板の上、37間4尺5寸(約68.6メートル)、広さ4間2尺5寸(約8メートル)なり」とあり、日本橋の名にふさわしい威容を示しています。現在の日本橋の長さは49.1メートル、幅員27.3メートルですから、長さにおいて約19メートル縮まり、幅員において19メートル広がったことになります。

 五層の天守閣をもつ江戸城が描かれているところから、明暦3(1657)年の大火前の江戸を描いたと推定される「江戸図屏風」(国立歴史民族博物館蔵)のなかの日本橋は、江戸の繁華の象徴として見劣りしない、 擬宝珠 ( ぎぼし ) 、欄干のついた立派な板橋です。擬宝珠のついた橋は、江戸城見付門の橋のほかは、日本橋と京橋だけだとされています。木橋の寿命がまず20年を超えることはないとされるところから、元和4年から明暦3年までの40年間に改架されていることは確実です。「江戸図屏風」に描かれた日本橋は、元和4年の再興のものか、それ以後の改架のものでしょう。

 

 

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ7月15日号より