日本橋(二)

 日本橋という橋名がどのような理由でつけられたのでしょうか。まとまった考察としては、明治33(1900)年4月に発行された風俗雑誌 『風俗画報』の臨時増刊として発行された「 新撰東京名所図会 ( しんせんとうきょうめいしょずえ ) 」の日本橋区之部巻之一に載った「日本橋の名義」がもっとも古いものでしょう。

 江戸時代に発行された書物のなかで日本橋の橋名にふれている著作を5冊紹介しています。

一、『紫の 一本 ( ひともと )』という著作には「一ツ橋、日本橋(二本橋)があって三本橋がないのはどうしたことか」とだけでている。

二、『 慶長見聞集 ( けいちょうけんぶんしゅう ) 』には「この橋は日本国の人が集まって架けた橋で、橋の名は人が付けたものではなく、天から降ったものか地より湧いたもののようで、諸人一同が日本橋と呼んでいることはまったくの不思議というほかない」と書いてある。

三、『 僧廊然游暦記 ( そうろうぜんゆうれきき ) 』には「橋上には貴賤上下、老若男女、諸商人、馬車が昼夜を分かたず往来している。ことに橋の四方の町々は豪家、豪商が軒をつらね、金銀がここに集まる。六十余州の繁昌の中心であれば、日本橋と名付けられたのも理屈にかなっている」とある。

四、『 江戸名所図会 ( えどめいしょずえ ) 』には「朝日が東海から昇るのを親しく見ることができるので、このような名がついた」という。

五、「 御府内備考 ( ごふないびこう ) 」には「この橋は江戸の中央にあり、諸国への街道もここよりさだめられたので、日本橋の名がついた」という。

 『新撰東京名所図会』の筆者は、以上の五説を紹介していますが、一、二説は信じられないとし、三説は一理あるが、にわかには認められないとして退け、五説がもっとも的確な説であり、全国諸街道の起点とすることをもって「日本」という名が起こったとしています。

 その後、昭和7年になって東京市が東京市史外篇の一冊として刊行した『日本橋』(筆者は鷹見安二郎氏)に橋名の由来について詳しく紹介されています。

一、『 江戸鹿子 ( えどかのこ ) 』には「南北に渡された橋の上から見れば、東から朝日が昇り、西山に日が沈む有様を眼前に見尽くして並ぶ橋がない、よってもって日本橋と名付けたのであろう」という。

二、『 墨水鎖夏録 ( ぼくすいしょうかろく ) 』には「大都会の中央にあり、日本の人、ここに来るものこの橋を渡らない者がいない。よって日本橋と名付けた」とある。

三、『御府内備考』(前出)

四、『松屋雑記』には「二本橋は木を二本渡した橋である。日本橋も最初は二本の木を渡したものであったろう」とある。

五、『慶長見聞集』巻一には「この橋は日本国の人が集まって架けた橋であり、これを日本橋と名付けた」とあり、巻二には「橋の名は人が付けたものではなく、天から降ったものか地より湧いたもののようで、諸人一同が日本橋と呼んでいることはまったくの不思議というほかない」とある。

 鷹見氏は、一、二、三説はともに後世の人が書いたもので無理にこじつけたところがあるとし、また四説は初めて架けられた時の事情から考えると、二本の木を渡しただけの原始的なものであったはずがないとし、日本橋の名称はおそらく誰が何々の理由によってというのではなく、誰いうとなく日本橋といいだして、公式にもそれが採用されるにいたったのであろう、と結論づけています。『慶長見聞集』の著者は 三浦浄心 ( みうらじょうしん ) といい、永禄8(1565)年生まれ、慶長19(1614)年ごろまでに見聞したところを書き記したのがこの書であるというところから、日本橋の建設の時期と重なり、信用がおけるとしています。

日本橋の橋名の由来について考察した人をもう一人紹介しましょう。銀座生まれ、銀座育ちの文人学者として知られる慶應義塾大学文学部教授池田弥三郎氏です。日本文学専攻で、民俗学にも造詣深い池田氏が駿河不動産株式会社編『日本橋駿河町由来記』(昭和42年)に寄せた一文「日本橋私記」(のちに同名の一冊として刊行)において橋名の由来を考察されています。

 池田氏はそのなかで『新撰東京名所図会』の諸説を紹介しながら、「大胆な想像説を述べるとすれば」と前置きされ、三段構えでつぎのように結論されます。

一、日本橋はもと、名もなかった日本橋川に架けられていた粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」といわれた。

二、それが江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰いうとなく二本橋から日本橋へと変わっていった。

三、そして誰いうとなくいい出した「日本橋」という名を、誰もが受け入れるられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表的な土地となり、さらに全国里程の中心となって、ますます「日本橋」の名にふさわしくなっていった。これが池田氏の結論です。

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ6月15日号より