水に生きる人びと (一)
江戸が隆盛を極め、百万人都市となったのは元禄の頃(一六八八〜一七○四)です。百万の江戸市民の衣食住を支えたのは、日本橋を中心とした江戸城下の商人・職人たちでした。商売の根幹となる物資の輸送は、陸上の交通機関がまだ発達していない江戸時代においては、海上輸送、舟運によっていました。江戸時代初期においては、江戸城の築造のため、石材、材木などの建設資材と、建設労働者の日用品や身の回り品が江戸に集中することになりました。やがて京都、伊勢、近江の商人たちが江戸の中枢を占めるようになりました。
その頃の海の大動脈は菱垣廻船、樽廻船でした。関西から大型の船に木綿、酒、油、小間物その他の物資を載せて江戸湊に入港していたのです。その後、寛文十一年に川村瑞賢によって東廻航路、ついで西廻航路が整備され、幕府、諸藩の物資の回漕が飛躍的に便利になりました。
奥州の太平洋沿岸を南下し、房総半島を迂回して江戸湾に入り、江戸に達するのが東廻航路で、日本海を西下し、下関から瀬戸内海に入り、大坂を経て紀伊半島を迂回して江戸に達するのが西廻航路でした。巨大な消費市場であった江戸に幕府直雇い、諸大名調達、あるいは問屋直営の廻船が集中しました。外海を巡ってくる船は大型の帆前船でした。
当時、江戸湊といいますと、大川(隅田川)の河口、永代橋から鉄砲洲にかけての辺りをさします。その情景は『江戸名所図会』や歌川広重の「江戸百景」などに描かれています。
菱垣廻船、樽廻船などの大型船は日本橋川などを遡行することができなかったので、小型の船に積み荷を積み替えてそれぞれの河岸地に運ばれました。江戸に荷揚げ場としての河岸地が発達したのはそのためでした。
江戸の近郊からもそれぞれの河川を通して日用品が運ばれ、また、近海からは魚介類が江戸に集中しました。
河岸地で有名なのは魚河岸です。日本橋から江戸橋にかけて川沿いの日本橋室町側に成立した魚河岸の起源ははっきりしませんが、江戸の初期、江戸城に魚介類を上納したあまりを日本橋のたもとで売りさばいたのが、しだいに市場化したものと思われます。青物市場とともに江戸に住む人々の胃袋をささえる鮮魚、塩乾魚市場として隆盛を極めました。
いまは埋め立てられてその姿を見ることはできませんが、江戸橋の下手から北へ入り込んだ堀割があり、西堀留川といいました。西岸を米河岸といい、東岸を小舟河岸といいました。下に掲げた写真は日本橋川から分かれたところに架かる荒布橋(あらめばし)から中ノ橋方向を見た西堀留川です。左側が米河岸、右側が小舟河岸です。多くの小舟が河岸に着き荷揚げする様子がわかります。この河岸の周囲は伊勢町、瀬戸物町、本町、大伝馬町、小舟町、堀江町など、江戸商業の枢要な地域で、毎日このような活況を呈していたのです。
京橋川の河岸地に大根河岸(だいこがし)、竹河岸があります。大根河岸は京橋から外濠にいたる北岸、つまり京橋側ですが、ここに青物市場ができ、神田多町(たちょう)とともに江戸市民にとって重要な場所でした。竹河岸は京橋の下流北岸で、ここには竹問屋が軒を連ねていました。この河岸地に小舟が着き、荷揚げする姿は大正十二年の関東大震災まで見られました。
このように、河岸地に小舟を使って物資を運ぶ人たちの役割は、時代とともにその重要性を増しました。このシリーズはこれらの人たちの生活を採り上げます。
明治末ごろの西堀留川(小川一真氏撮影)
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ9月15日号より