日本橋(一)

 日本の首都の中央橋。江戸時代、5街道の起点とされ、現在橋中央に道路原標が埋め込まれている日本橋。江戸・東京の繁栄を見続けてきた日本橋は特別の意味を持っています。

 昭和39(1964)年の東京オリンピックを機に首都高速道路都心環状線が上を覆って久しくなります。日本橋の上に高速道路が架かったのは、日本経済が戦後の復興期を終えて、ようやく高度成長期を迎えた時期でした。それは同時に日本がモータリゼーションに突入した時期でもありました。交通の渋滞緩和と、東京への物資の流出入と通過をいかにさばくかという問題の解決も緊急の課題でした。

 東京オリンピックへの市民の期待とその高揚感は、日本橋川の上にできたメカニックなカーブを描く高架橋に対して、なにがしか未来都市を予想させるものがありました。

 しかし、一方で東京を象徴する日本橋を高速道路で覆ってよいのかという都市景観を重視する立場から、それを嘆く声がありました。ここ数年、元の姿に戻すべきだとする声が地元はもちろん日本橋に関心を持つ人たちの間から上がるようになりました。

 このシリーズでは、分らないことが多いのですが、日本橋の生い立ちから、現在にいたる足跡を振り返ってみようと思います。

 日本橋がいつ創架され、日本橋の橋名がいつどのような理由で名付けられたかという問題は、それを明確に示した記録がないために、類推するよりほかないのです。ここでは、先人の業績を紹介するかたちでそれらの問題に迫りたいと思います。

 江戸の地は、12世紀はじめごろ坂東平氏の流れをくむ江戸氏、ついで関東管領扇谷(かんれいおうぎがやつ)上杉氏の重臣太田資長(すけなが)(道灌)、上杉定正、小田原の北条氏の手に相次いで移りましたが、豊臣秀吉の関東進攻を受けて滅亡、この領地は徳川家康に与えられました。天正18(1590)年に家康は江戸に入り、徳川氏の実質支配するところとなりました。

 太田道灌の時代の江戸城およびその城下の様子は、古い記録によりますと、城は貧弱で、外廻りの石垣もなく、建物も朽ち損じたものが多かったといいます。城下は茅葺きの家が100軒ほどある程度で、東方の平地はあたり一面潮入りの茅野が原が、また西南の台地は武蔵野の原が一帯に広がっていました。城の南側は日比谷入江が湾入し、上げ潮になると一面海となり、現在の日本橋から京橋辺は洲となっており、豊島の洲といわれました。家康が入国した当時の江戸はこのような状況だったのでしょう。

 家康はまず城を築き、家臣団と商人・職人たちが住む城下町の経営に乗り出しました。日本橋本町の町割りを行うと同時に、日比谷入り江の埋立を行い、小石川と合流し日比谷入り江に注いでいた平川の改修を行い、外堀から現在の日本橋川に注ぐようにしました。日本橋川はおそらくこの時開削、あるいは埋め立ての際埋め残されて誕生したものと思われます。

 家康の江戸入国の時には関八州(かんはっしゅう)を支配下に置いていたとはいえ、一地方大名に過ぎませんでしたが、慶長5(1600)年に天下分け目の合戦といわれた関ヶ原の戦いに勝利し、天下の実権を握り、慶長8年には将軍となり、名実ともに日本全国の覇者として70余家の大名を動員して天下の総城下町づくりに乗り出しました。

 よく知られているように、神田山を切り崩し、その土を盛って日本橋以南の豊島の洲崎の造成が行われ、堀割も計画的に埋め残され、やや変形ではありますが、日本橋浜町付近から南へ新橋辺まで整然とした新市街が出来上がったのです。日本橋川が外堀から隅田川にそそぐ現在の形になったのはこの時のことと思われます。

 そして、同時にここに橋が架けられ、日本橋と名付けられたというのですが、これには二説あります。

 まず、架橋が架かった年代ですが、慶長8年説のほか、慶長17年説があります。慶長17年説は『事跡合考(じせきごうこう)』、『参考落穂集』、『駅逓志稿(えきていしこう)』などの書物に書かれているのですが、これらは確たる拠りところが示されず、慶長八年説を覆すにたるものではありません。慶長8年に幕府が開設され、同時に豊島の洲崎の埋め立てが始まり、そして翌9年2月には日本橋を起点とする諸街道の一里塚が築かれました。また、同11年12月には高札が建てられました(『北条五代記』)。こうしてみますと、「日本橋は慶長8年癸卯(きぼう)の年、江戸町割の時節新しく出来たる橋なり」とする『慶長見聞集』の説が妥当でしょう。

 もっとも埋め立てに際して工事用に簡易な橋を架けていたことは当然考えられます。太い丸太を二本渡した程度のものであった可能性はありますが、将軍家康が築いた江戸城の城下町の中心にふさわしい橋が架けられたのは慶長8年ということになります。

 つぎに日本橋という名の由来についてみてみましょう。日本橋の橋名の由来についても諸説あって、どのような理由から日本橋の名が付けられたかはっきりしないのです。 これまでも橋名の由来についての考察が試みられてきました。

中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏

中央区のお知らせ5月15日号より