水に生きる人びと(八)
前回、昭和5(1930)年8月、水上協会管轄の「東京水上尋常小学校」が月島西仲通九丁目5番地(現・勝どき一丁目11番地)に開校するまでの経緯についてふれました。親とともに水上で生活する児童の就学率の低さについても紹介しました。
ふたたび石井昭示氏著『水上学校の昭和史』から引用しますが、陸上の学校に通う児童の実状について『国民新聞』(昭和4年6月16日)が取材しているところを紹介しましょう。
船によって夜間繋留する船溜まりは大体決まっていました。しかし、仕事の都合で同じ溜まりに必ずしも船が戻ってくるとは限りません。出先の都合で行き先が変更になることがままありました。次は『国民新聞』の記者が紹介した児童の作文です。
私は今日7時半にうち(船)を出ました。荷物を揚げてしまったら土州(どしゅう)橋(箱崎川に架かっていた橋)に着きますから私はそこへ帰ります。
この間私は野宿をしました。井野堀でうちを待っていたのにどうしても来なかったからです。材木の間に入って一人で淋しい思いをしました。外が寒かったのでマントをかぶっている間につい寝てしまいました。夜の12時ごろ目がさめましたが船はまだ来ません。
またウトウト眠りましたが、2時に目がさめました。こんどはと思って見ましたが、うちはまだ着きません。さびしいので涙が出ました。5時ごろに目をさましたら船が来ていました。あゆみ(渡り板)がかけてあったのですぐうちに入ってグッスリ眠りました。予定の溜まりに船が着かない時には、運送店に電話を掛けて船の行き先を聞いたり、心当たりの溜まりに移動して探すことになるのです。親の心配もさることながら、児童の心身への負担ははかり知れないものがありました。
このような事態をなくすため、全寮制の学校の開設が望まれ、その結果、東京水上尋常小学校の開設となったのです。
校舎は940平方メートルの敷地に、教室3、寝室2、事務室、食堂、浴場、炊事室各1をもつ平屋建てでした。
開校1年目は児童32名、これを1、2年と3年以上の2クラスに編成した複式学級でした。不就学のため12歳で1年生という児童もいましたが、学力の向上に応じて進級しました。学習のほか、生活指導(時間の観念、言葉遣い、礼儀作法、手洗いの励行など)、健康管理(体力の向上、皮膚病・眼病の予防など)に力を入れました。女子には裁縫の講習も行いました。児童たちにとって、親から離れるという淋しさはありましたが、大変な進歩でした。親たちにとっても一安心といったところでした。
その後の経過についてふれますと、昭和15年3月、学校は東京市に移管され、同18年4月には児童の増加と通船位置を考慮して深川区浜園町(現・江東区塩浜一丁目)に深川分校を設け、同時に高等科を置きました。
昭和10年代は、回漕業も戦争の拡大にともない盛んになりましたが、本土空襲が現実のものとなりますと、学童の疎開が始まりました。水上小学校では茨城県新治(にいはり)郡の法雲寺に疎開しました。しかしここもアメリカ軍の上陸が予想される事態となり、東京都から再疎開を命じられ、奔走の結果、秋田県仙北郡田沢湖の蓬ほう莱らい舘に移りました。ここで終戦を迎え、帰京したのは昭和20年10月でした。
しかし、校舎は軍が使用していたため、しばらくの間、教師たちははしけ溜まりを巡回し、船上で学習をみてやっていました。
翌21年4月、学校は京橋区の所管からふたたび都に移り、都立水上小学校となりました。そして月島校舎と学寮の補修が終わり、72名の学童を受け入れ、新学期が始まりました。11月には深川校舎の補修もできて、小学児童は深川へ移りました。
昭和24年2月、月島の旧本校は中学生徒の付属学寮となって170名を収容しました。
水上小学校の最盛期は、昭和26年で、194名。14年後の昭和40年には45名に減り、翌年3月にはその使命を終え、廃校となりました。
太平洋戦争後、社会福祉行政においていろいろな施策が打ち出されました。昭和23年2月、水上生活者の福祉向上を目指して月島に水上民生舘を設置しました。その後、蛎殻町の箱崎川の係留船に移動し、さらに昭和28年築地七丁目9番地の明石堀河岸地に移転しました。
昭和27年都条例の公布により東京都水上生活舘と改称し、事業として行政連絡事務(戸籍、住民登録、選挙、教育、保健衛生、船籍、配給)、相談事業(生活、結婚、内職、法律)、啓発慰安事業(講習会、講演会、演芸会、映画会)、保健事業、授産場(ミシン科、手芸科)、理髪室、簡易洗濯室などが整えられました。
昭和34年、庁舎の改築を機にこれまで水上生活者に限定していたのを一般都民にも広げました。昭和40年に港湾労働法が制定され、はしけでの居住が禁止されたこともあり、水上生活者保護のあり方も変わりました。同年都立水上生活舘は区に移管され、中央区立生活館となり、業務を引き継ぎました。
学校近くの桟橋から各船溜りへ送られる子どもたち
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ4月15日号より