水に生きる人びと(六)
船を生活の本拠として暮らす人は水上生活者といわれてきました。艀船(はしけぶね)で生活する人が一番多いのですが、艀船(はしけぶね)のほかに、機帆船、曳船、泥船、砂船、宿船などで生活する人もいました。宿船は物資の輸送用には使われず、河岸地に船を繋留してそこを生活の本拠とした船です。
艀船でもっとも多い達磨船(だるません)や伝馬船(てんません)に例をとって船の中の生活空間を見てみましょう。つぎに掲げる作文は、昭和27(1952)年ごろ、小学五年生(女子)が書いたものです。『綴方風土記』第三巻に掲載されたものですが、ここでは石井昭示著『水上学校の昭和史』から引用させていただきます。
わたしの船は、三畳ぐらいの「とも」(船尾)に台所があって、みずがめやおかまや、たきぎ、石炭などがおいてあります。へっつい一つと、しちりんだけで炊事をします。「おもて」(船首)には、いろいろなお船の道具や、船を洗うときに使う物が置いてあります。「とも」と「おもて」の間を「荷の間」といって石炭やお米などを積みます。「とも」からはしごを下りていくと部屋があります。三畳ですが、ここに家の道具がみんなおいてあり、夜はおとうさん、おかあさん、わたしの三人が休みます。友だちが遊びにきたときなどは、ここで楽しく一日をすごします。寝具、着物、こまごまとした物はおしいれ一つと三つの箱の中にきちんと入れてあり、神棚もほとけさまもあります。
わずかこの三畳の空間を「セジ」と呼んでいました。「炊事」という言葉が訛って「セジ」というようになったといいます。船が仕事場であり、「セジ」が家族団らんの場であったのです。
これら水上で生活する人びとは、このシリーズの最初のところで述べましたように、東京が首都として発展するにあわせて、艀船(はしけぶね)の数は増加しました。とくに艀は東京港の整備の遅れから、横浜港からの回漕や、品川沖あるいは芝浦沖の大型船からの沖取りに欠かせない存在でした。もちろん日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などの戦争景気、戦争の後にきた不況、関東大震災、戦災の後の荒廃、昭和初期の世界恐慌など景気の浮き沈みがありましたが、昭和十年ごろが艀の最盛期であったようです。
法政大学大学院エコ地域デザイン研究所高橋亨・黒木俊彦・高村研究室「東京の水上生活者と水と共存する建築」(2005年)によれば、東京における水上生活者世帯と人数は次表のとおりです。
年代 世帯 人数 調査主体 1920年(大正9年) 3,262 8,608国勢調査 1925年(大正14年) 6,458 16,569国勢調査 1935年(昭和10年) 7,650 18,286水上警察署調査 1943年(昭和18年) 3,457 9,296水上警察署調査 1951年(昭和26年) 2,052 5,830東京都民政局調査 1965年(昭和40年) 336 809国勢調査 移動を常とする水上生活者とすれば、その数を正確に把握することは困難なことですが、表からは昭和10年ごろがピークで戦争の激化と共に減少し、戦後の混乱期から昭和30年代にかけて急速に減少していったことが読み取れます。
戦後港湾の整備が進むと同時に、河川の埋め立てもすすみ、物資の回漕は陸上輸送に切り替えられ、艀の役割は次第に低下していったのです。昭和四十年に港湾労働法が制定され、その中で港湾労働者とその家族が艀で居住することが禁止されました。しかし、その後も生活のため水上生活を続けた人たちがいたようで、昭和47年に180世帯、209人の人たちがいたという数字がのこっています。
艀の繋留地は回漕問屋が並ぶ河岸地の船溜まりにありました。東京湾における繋留地は西側に品川運河・芝浦水域・新銭座船(しんぜにんざ)、東側に小名木川・中川・東雲(しののめ)水域(油堀・門前仲町)・小松川・今井などがありましたが、その中心は中央区の船溜まりでした。中央区には大根(だいこ)河岸(外堀)・浜離宮・築地川・越前堀・八丁堀・北新堀・中洲堀・箱崎堀、それに月島地区などの船溜まりがありました。これらの地域には倉庫が立地し、仕事を終えた艀船が集まってきたのです。
ここで食料・燃料・水、その他の生活必需品の補給をおこない、場合によっては陸から電気をとり、銭湯にもゆっくり浸かり、つかの間の家族の団らんを持ったのです。
このように不自由な生活の連続ですが、なんと言っても出産と子どもの子育て、教育が最大の悩みの種でした。
出産は、実家や親戚、雇い主の家、産院でする場合が多かったようですが、まれには船の上で出産しました。陸の上で出産した場合でも産後の休養を十分にとれず、船の上の生活に戻ることが普通でした。清潔とはいえない船の上での出産、子育ては危険がいっぱいでした。よちよち歩きの幼児が船から転落する事故もあり、不幸にも命を落とすこともありました。母性保護、乳幼児保護についてはほとんど野放し状態だったといってよいでしょう。
子どもが成長し学齢期に達する時期になると、また一つ親の悩みが加わります。子どもにとっても試練の時が始まります。
四角に開いた中がセジ。その横が炊事場となりました。
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ2月15日号より