水に生きる人びと(五)
前回、多摩川と江戸・東京、とりわけ中央区とのかかわりについて材木と砂利の輸送をとりあげ述べました。今回はかつて中央区に住んだ人びとの飲料として多摩川の水が利用されたことにふれたいと思います。
現在の中央区や江東区の広い部分は埋め立てによってできた低地でした。井戸を掘っても良質の水は少なく、大部分は飲料に適しませんでした。そこで幕府は上水の普及につとめ、神田上水、ついで玉川上水の敷設をおこないました。中央区の地域はいちおう両上水の恩恵を受けることとなりました。
ところで、江戸・東京の井戸には掘抜き井戸と上水井戸がありました。掘抜き井戸は地下水を汲み上げるのですが、上水井戸は神田上水・玉川上水の汲み置きの井戸です。掘抜き井戸も場所によって飲める井戸と飲めない井戸がありました。汲み置きの井戸は流末になりますと、汚濁水の混入などで飲料水に適さないところが多くなりました。そのような家では、売りにくる水屋から一桶いくらで水を買うこととなりました。
東京に水道が敷かれる以前の明治19(1886)年に行われた水質検査の統計によりますと、試験の対象になった総井戸数(実際にあった井戸の総数とは違います)は日本橋区が2373(上水井戸2034、掘抜き井戸339)、京橋区が751(上水井戸460、掘抜き井戸291)、そのうち検査の結果、使用を禁止されたのが日本橋区が1229(上水井戸968、掘抜き井戸261)、京橋区が373(上水井戸182、掘抜き井戸191)でした。この統計からは中央区内にどれだけの掘抜き井戸があったか正確な数字はわかりませんが、いずれにしても水の飲める井戸は少なかったことがわかります(都史紀要31『東京の水売り』)。
中央区内の掘抜き井戸も、場所によってきれいで飲料に適する水が出るところと、汚れて飲料に適さないところとがありました。木挽町四丁目(銀座五丁目)にあった佐久間象山の家塾(狩野画塾の向かいの家)の勝手口にあった井戸はじつにきれいな水が湧いていました。また、『明治商売往来』の著者仲田定之助の生家は、京橋区南みなみまき槙町(八重洲二丁目)ですが、仲田家の井戸水は清冽で、「冬暖かく夏冷たかったし、癖もなかった」といいます。仲田家の井戸も渇水期には濁り、水屋の世話にならなければなりませんでした。銀座にも飲料に適する井戸もあったのでしょうが、弥左衛門町(銀座四丁目)の住人つづら屋の主人は、ここいらの井戸水は飲料に適さず、また、玉川上水の木樋も腐っていて汚水が混入し、同じ町内の小池水屋から水を買っていたといいます。近くの弓町(銀座二丁目)にも竹内という水屋がありました。つづら屋の主人の話によりますと、水屋は二か町に一軒の割であったといいます(拙著『明治の銀座職人話』)。
佃島の井戸も島の中心部はともかく、周辺部は飲めませんでした。埋立地の月島、新佃島も同様で、明治36(1903)年に相生橋が深川・月島間に架かってはじめて水道が開通しました。それまでの月島の住人は大変な苦労をしたのです。
水屋は、呉服橋内の銭瓶橋左右や一石橋左右の口から流れ出る神田上水・玉川上水のあまり水や、多摩川・中川の中流域から取水して水船で東京まで運んだ水を、天秤棒で前後に桶を振り分けて担いで家々をまわって、一桶を3、4銭で売ったのです。それが水道敷設まで続きました。
水売り「風俗画報」より
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ1月15日号より