水に生きる人びと(四)
前回、多摩川の流れを利用して奥多摩の木材を筏に組んで河口まで運び、船に積み替えて東京まで運んだことを紹介しました。もう少し木材運搬について述べますと、多摩川の上流で伐採した原木に焼き印を押し、それを流れの緩やかなところに下ろし、筏に組んで、筏師が筏を操って多摩川河口(河口のあたりを六郷川と呼んでいました)まで運びました。多摩川を下るのに4日かかったといいます。
上中流の川幅の狭い多摩川の筏は、東京湾の荒波に耐えきれず分解してしまうので、木材運搬の専用船に積み替えて東京へ運びました。筏師は仕事を終えると、六郷に4軒ほどあった筏宿に泊まって休息をとりました。多摩の木材のほとんどが東京の木場へ運ばれました。
これとは別に、北海道の原木が大型船によって横浜港まで運ばれますと、山下町あたりで沖取りをして筏に組み、横浜近くで消費する一部を除いてそのほとんどを東京まで曳航しました。関東大震災前の東京港は大型木材船を入港させる施設がなかったからです。巨木の多い北海道産の木材を筏に組み、潮流の関係で上げ潮の時刻である夜の10時か11時頃横浜を出て東京へ向かいました。羽田沖を通過して東京の指定の場所へ着くのは早朝の5時か6時でした。荷物を引き渡し、タグボートで横浜へ帰り着くのはお昼頃でした。
関東大震災後、木材の需要は、復興事業のために急速に伸びました。国内生産では間に合わなくなり、輸入材が急増しました。やはり横浜港に着いた大型船から沖取りして筏に組み、東京まで曳航しました。大型船(2から3000トン)も横浜港で荷を軽くして吃水を上げ、東京まで来る船もありましたが、芝浦港では10隻も入ると身動きがとれない状況でした。筏にして曳航してきた木材は、今の築地の魚河岸あたり(昭和10年東京中央卸売市場として開場する以前)や、越中島、木場に近い河岸、月島・勝どき・豊海と晴海の間の朝潮運河に貯木されました(白井駒三郎著『筏と共に50年』昭和50年)。
筏の話が長くなりましたが、多摩川と東京、とりわけ中央区との関係は、木材ばかりでなく、土木建設用の砂利や飲料水としての水を通して密接な関係にありました。
多摩川の砂利の採掘は、記録からわかるのは、江戸時代なかば過ぎ以降で、河原で採掘された砂利は江戸城や武家屋敷、寺社の造営に使用されたと思われ、船で江戸に運ばれました。その実態は詳しくはわかりませんが、明治時代以降、横浜・東京間の鉄道線路の道床バラス工事に硬砂岩を多く含む多摩川の良質の砂利が大量に使用されました。また、首都東京の建設にもコンクリートの材料として大量の需要がありました。とくに多摩川は東京・横浜に近かった関係で砂利の採掘が盛んになりました。そうなりますと、重量の重い砂利だけに、船のみの運搬では需要量を到底まかなえきれず、鉄道を敷設するようになりました。
明治末年には玉川電気鉄道、大正時代には京王電気鉄道、多摩川砂利鉄道(後の南武鉄道)が開通して、船輸送にとってかわりました。
「貞享上水図」 青…上水道 黄…道路 赤…橋
中央区文化財調査指導員
野口 孝一氏中央区のお知らせ12月15日号より