月島を愛した俳人 

【橋本夢道】

  

 大正七年、十五歳で徳島から上京し、昭和六年に十三年間勤めた奥村商店を解雇された夢道は、友人の紹介で新しい職場に就職しました。世の中は不況のまっただ中で、就職できたのは幸運でした。

 世界的な不況の中でプロレタリアの運動も高揚しました。夢道がプロレタリア俳句に傾斜したのもこの頃です。しかし、雑誌の発行もままならなくなり、発表の機会は少なくなりました。

 昭和九年一月、「俳句の火を守ろう」という栗林一石路の呼び掛けで『俳句生活』が創刊され、夢道も同人として参加しました。この年、妻静子の流産、静子の父の死という不幸が続きました。

 夢道は『俳句生活』を中心に作句を続け、随想「月島雑記」を断続的に発表しました。

 昭和十年十二月号から『俳句生活』の編集発行人が橋本夢道となり、発行所も月島の夢道宅に移りました。

・夜となく昼となく鉄打ち器械と生きて粗(あら)き人のくらし

・酔うとその賃金はのんでしまってやけにたのしいようでのむ

・いく日もいく日も無職の春の私は電車にのって行きたい

・出て行くも無職のわが視界を妨げず女夏めきゆく

・鉄のように耐えて支えて病めば即座に死ぬかも知れぬ生活の街

▲映画館全線座のプログラム
(昭和14年2月16日)

 昭和十二年七月七日、日中戦争が勃発し、充員補充のため夢道のもとに召集令状が届き、八月、徳島の歩兵第四十三連隊補充隊へ応召入隊しましたが、病気のためこの年の十二月、召集解除となりました。妻静子は子供二人をつれて徳島まで夢道を迎えに行き、夢道の郷里をはじめて眼にしました。

 昭和十三年一月、帰京し、職場に復帰しましたが、勤務先の洋品雑貨店は前年に経営不振となり、みつ豆・汁粉屋へ商売替えし、銀座八丁目に「月ヶ瀬」として開店していました。同店では、普通のみつ豆の上に飴を載せ、果物などをあしらった「あんみつ」を考案し、販売しました。夢道が作った「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」というコマーシャルは評判となりました。

 昭和十四年暮れ、苦労を重ねた夢道の父慶五郎が亡くなりました。

  

 ・あたふたと故郷に帰るいつも悲しいことばかり

 ・歯を喰いしばり遂に寒そうに死んでいる父よ

 ・倖(しあわせ)うすくうすき布団に死んで齢(とし)には不足なし

 ・死にし父の歯の跡寒しきせるの銀

    

 七十三歳の生涯でした。

 昭和十五年一月号の『俳句生活』は特集を組みました。『天の川』、『土上』、『広場』、『京大俳句』など新興俳句系の代表作家の寄稿をえたものでしたが、これが終刊号となりました。

 昭和十五年という年は、六月砂糖・マッチの販売が切符制になり、八月築地小劇場を本拠としていた新協劇団と新築地劇団が解散に追い込まれ、九月日独伊三国同盟が結ばれ、十月大政翼賛会が発足、ダンスホールが閉鎖され、十一月には大日本産業報国会が創立されました。戦時体制が確立され、戦争前夜の社会状況でした。

昭和十五年二月から五月にかけて『京大俳句』の同人たちが時局に批判的として検挙されるという事件がおこりました。そして翌年二月、東京在住の俳人たちも同じ理由で逮捕され、その中に夢道もいました。

 このシリーズの冒頭に掲げた「動けば寒い」は夢道が勾留中で詠んだ句でした。

   

 ・差し入れの菊嗅げば生れ故郷の雲がある

 ・雑役が走って来てああ大戦ハワイに起る

 ・わが四十獄の雑煮を神妙に食う

    

 夢道が保釈され出所したのは昭和十八年三月、公判が始まったのは十二月、その月のうちに判決があり、懲役二年、執行猶予三年の刑が決まりました。これより前、六月に元の職場に復帰し、また、九月、荻原井泉水を訪ね、『層雲』復帰も決まりました。創作欲も湧き、『層雲』に夢道の句が載るようになりました。

 昭和十九年に入り、東京への空襲も激しさを加えるようになり、十月頃妻子を夢道の故郷徳島へ疎開させました。

 夢道は東京に残りました。米軍の東京への空襲は激しさを加えました。翌年三月十日の東京大空襲は死者九万数千人の大惨害となりました。

 時あたかも今年は東京大空襲から数えて六十年目に当たります。中央区では日本橋・銀座地区の大半を焼く被害を出しましたが、月島の家は奇跡的に助かりました。

 夢道はこれを期に徳島に疎開し、農作業のかたわら、好きな鮒釣りをする日を送りました。このようにして夢道一家は八月十五日を徳島で迎えました。

   

昭和十九年の作

 ・学校を捨てて春、少年鉄を切削する仕事

 ・月の方へ可動橋がくろくかかっている春

 ・明月駅頭は学徒出陣の歌学徒輪形

 ・生きてしみじみ伊豆に来て冬の日を見る

 ・東京に戻った私に冬の隅田が大きく曲がっている

 ・すこしのこった戦禍の柳はなやぎ銀座早春

  

中央区文化財調査指導員 野口 孝一氏